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旅へ。(第2回 弘前と太宰治)

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旅へ。(第2回 弘前と太宰治)

岩木山と太宰 津軽を想う桜桃忌(おうとうき)

「透きとほるくらゐに嬋娟(せんけん)たる美女ではある」。太宰治(1909~1948年)は小説「津軽」で、名峰・岩木山=五十嵐雅幸さん撮影=のシルエットをあでやかな十二単衣(ひとえ)に例えた。安寿(あんじゅ)と厨子王(ずしおう)伝説で非業の死を遂げた安寿姫が祀(まつ)られ、地元の人は敬愛と親しみを込めて、「お岩木さま」「お山」と呼ぶ。「静かに青空に」「ふはりと浮かんでゐる」と太宰が描いた津軽富士は、なるほど慈愛に満ちた母性をたたえている。

弘前城の天守、禅林街の栄螺(さざえ)堂、ルネサンス風の旧市立図書館、西欧建築の教会、そして近代建築の旗手とされる前川國男が設計した建造物の数々」……。青森県弘前市の街並みは古雅とモダニズムが溶け合い、凛(りん)として美しい。

大地に広がるリンゴ農園を訪ね、明治以来4代続くという農家の話に先人がたどった苦難の歴史を知った。旧弘前藩士・菊池楯(たて)衛(え)は「青森りんごの祖」。米国人から栽培技術を学び、維新で困窮した士族や農民に苗木を惜しみなく分け与えた。ソメイヨシノ1000本を城に植えたのも、誇りを取り戻そうとしたからという。「欲があってはならない」という信念に武士の一分(いちぶん)を見た気がして、清々(すがすが)しい。その桜が城に残る。樹齢140年、幹周り4㍍の堂々たる立ち姿は、桜守らがリンゴ剪定の技を継承してきた証(あかし)でもある。津軽の人は信念を曲げない。武骨、一途、そして優しい。

太宰治の墓(禅林寺)

弘前に旅した冬、山肌は雲に隠れていた。「美女は気まぐれ」とその頃はまだ暢気(のんき)なものだったが、コロナ禍は容赦ない。2600本の桜が咲き誇る「弘前さくらまつり」は戦後初めて中止となった。北国の遅い春は足早に去り、山麓を白く染めたリンゴの花も散った。農家の方々は今頃、蒼々と空に浮かぶ岩木山に見守られ、摘果や袋掛けに汗を流していることだろう。

故郷を愛し、憎んだ無頼の作家が眠る東京・三鷹の禅林寺を訪ねた。桜の緑に日差しがまだら模様を描いていた。遠雷が聞こえた。桜桃忌が過ぎ、季節は夏である。

*太宰の心中遺体が玉川上水で見つかった6月19日は桜桃忌と呼ばれる。一方、6月19日は太宰の誕生日とも重なるため、出身地の青森県五所川原市では「生誕祭」と呼んでいる。

(「旅行読売」2020年8月号)

Writer

三沢明彦 さん

元「旅行読売」編集長

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