元運転手が振り返る都電が駆けた昭和の東京
日比谷公園停留場に着いた9系統/昭和42年(提供/東京都交通局)
尋ねられれば運転しながら観光案内も
「昔はゆったりした時代でしたよ。停留場に停まっていて、道路の向こうから『乗りたいから、待って~!』なんて声がかかると、出発する信号を一つ先延ばしにし、その客が乗り込むのを待っていたものです」
そう話してくれたのは、都電の運転手だった古川靖男さん。昭和37年(1962年)、22歳の時に中途入局。青山電車営業所の配属になった。
都電の運転手は花形職業
都電の歴史は明治44年(1911年)に東京市電気局が創設され、路面電車の事業を始めた。ただ残念ながら、昭和47年(1972年)に27系統と32系統の専用区間を残し、すべて廃止された。その後、昭和49年(1974年)10月に系統を一本化し、名称を現在の「荒川線」と変更した。最盛期には40系統あり、都電の運転手は花形職業だった。
「3か月は見習い期間でしたが、その後はもう独り立ち。緊張しましたね。渋谷と須田町を結ぶ9・10系統は坂道が多く、気を配って運転したものです」
当時の渋谷は今のような若者の街ではなく、にぎわいの中心は神田須田町にあった。現在の須田町交差点は、10系統もの都電が交錯していた。今でいう東京駅のような巨大ターミナルだったが、残念ながら当時の面影は微塵もない。
銀座や有楽町は昔も今も華やか
古川さんが運転した10系統は三宅坂、九段、駿河台下などを通り、朝夕の乗客は女学生が多かったという。
「9系統の早朝も特徴的でした。渋谷から東へ水天宮の先、浜町中ノ橋まで走っていて、築地を通るから買い出しの魚業者で車内は混んでいて。掘割を渡るたびに潮の香りもしました」
築地へ向かう手前にあった数寄屋橋は、ラジオやテレビのドラマ「君の名は」で脚光を浴びた名所。高速道路建設に伴い昭和33年(1958年)に姿を消したが、今は数寄屋橋交差点近くに東急プラザ銀座や銀座ソニーパークなどが立ちにぎわいは変わらない。
「昭和39年(1964年)の新幹線開通から、頭上をひかり号が走るようになったのも数寄屋橋の思い出です。近くには、地球儀型の森永の広告塔や、派手な看板を掲げる日本劇場もありました。銀座四丁目交差点にできた円筒形の三愛ビルは、総ガラス張りで目立ちましたね。地方から遊びに来る人も多く、尋ねられれば運転しながら観光案内もしましたよ。そんなことが許される時代でした」
三愛ビルは銀座のランドマークで、最上部を飾る三菱電機の広告ネオンが、音楽に合わせて点灯したのを記憶する人も多いだろう。
昭和38年(1963年)に9・10系統の一部区間が高速道路建設で迂回するまで、平河町辺りから富士山を望めた様子も古川さんは克明に語ってくれた。
人に街に、ゆとりのあった昭和
昭和39年(1964年)の東京オリンピック開催は都電にとっても転換期だった。高度経済成長の波は広がり、自家用車を持つ人が増加。昭和34年になると、道路交通法の改正により都電のレール敷通行規制が解かれ、一般車やバス、タクシーが行き交う車両の海を泳ぐように都電は走った。
「運転に気を使ったのは当然ですが、定刻通りに走れないのが悩みの種。渋滞がなければ、例えば6系統なら渋谷―新橋間を早朝は片道約25分、地下鉄にも負けなかったんです」
そう古川さんは話すが、そこは昭和のこと。赤ん坊を抱く客が乗ってくれば荷物を持ってあげ、段差のある車両に乗り込むおばあちゃんの手を引いてあげたりと、運転手は大忙し。人を思いやる気持ちから、運行が遅れることも多かったようだ。
「当時は、一人一人にゆとりがあったんですね。昭和への懐かしさが今では憧れに変わる、そんな寂しさもあります」
都電荒川線は今も〝昭和〟を乗せて走っている。軌道上で車輪がきしむ音は昔と変わらない。シートに腰かけて目を閉じると、希望に満ちた昭和の街並みが広がる気がする。「時に立ち止まり、振り返ることも大切」。昭和から平成、そして令和へ。古川さんの言葉や表情から、そんな思いが伝わってきた。
文/松田秀雄
(出典 「旅行読売」2019年臨時増刊「昭和の東京さんぽ」)
(ウェブ掲載 2019年10月21日)