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作家・伊東潤が語る「明智光秀の城」

場所
> 大山崎町ほか
作家・伊東潤が語る「明智光秀の城」

琵琶湖の畔、明智光秀像が立つ坂本城址公園(写真/ピクスタ)

謎多き武将の築城遍歴をたどる

謎多き武将、明智光秀はどんな城を築いたのかーー。その歴史と最期を、「城を一つ」「茶聖」などの作品で知られる歴史小説作家、伊東潤さんに解説していただいた。


本稿では光秀の普請(ふしん)・作事技術の高さをその実績から探り、それが光秀最後の戦いとなった山崎の戦いをいかに左右したかを語りたい。

1571(元亀3)年、信長は比叡山(ひえいざん)焼き打ちで功のあった光秀に、近江国(おうみのくに)【注1】滋賀郡5万石の支配を委ねる。これにより光秀は、織田家中で最初の城持ち大名となった。翌1572(元亀3)年、光秀は滋賀郡の支配拠点として、琵琶湖の湖上交通の要衝である坂本の地に築城を開始する。坂本城である。

現在、坂本城は水没しており、その全容は定かでないが、ルイス・フロイスの『日本史』によると、「信長が安土(あづち)山に建てたものに次ぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にない」とある。つまり豪壮華麗な城だったと分かる。

著者近影
伊東潤さん

丹波攻めと黒井城、周山城

1575(天正3)年、光秀は丹波国(たんばのくに)【注2】に攻め入るが、波多野秀治(はたのひではる)の反乱によって挫折する。しかしこの時、12、13の付城(つけじろ)【注3】を築いたという記録があり、光秀が普請作事を得意としていたと推測できる。

1579(天正7)年、光秀は再度の丹波攻めを行うが、その時、拠点としたのが自ら築いた丹波亀山城だった。ただし現在見られる姿は、光秀没落後に手が加えられており、光秀時代の遺構を知ることはできない。

同年、光秀は丹波国を平定すると、丹波亀山城の支城として福知山城を築く。この城も光秀の没落後に大改修が施されるので、光秀が構築した城の全容は把握できない。ただし天守台の一部は、自然石を加工せずに積む野面積(のづらず)みの上、五輪塔・石仏・石臼・灯籠(とうろう)といった転用材が500近くも用いられており、天正年間の特徴を示している。

転用材はこれまでの支配者を否定する(葬り去る)意味があるが、この城の場合は周囲の緊張が高い中での構築となったので、新たな石の切り出しを待っていられなかったのだろう。

丹波国で最も光秀の築城の痕跡を残しているのは黒井城だ。この城は丹波国で最後まで抵抗した国人・赤井氏の居城だったが、光秀が赤井氏を滅ぼした後、大幅に改修の手を加えたので、光秀創築と言っていいだろう。

黒井城は標高356㍍の山頂に築かれた典型的な山城で、石垣は野面積みだが、本丸の石垣の高さは5㍍もある。また食い違い虎口(こぐち)【注4】や枡形(ますがた)もあり、織豊(しょくほう)系城郭【注5】の特徴を備えている。瓦(かわら)も多く出土しており、天守か櫓(やぐら)の構築も認められる。

この城は光秀の没落後、すぐに廃城となったので、遺構の大半は、光秀の手になるものと言っていいだろう。

丸ごと光秀の城として有名になったのが、1581(天正9)年頃に築かれた京都の周山(しゅうざん)城だ。標高480㍍の山頂付近を中心に、東西南北の尾根沿いに連郭(れんかく)式【注6】に城域が広がる山城だが、どの曲輪(くるわ)にも石垣が使われており、石垣の天守台まで残されている。

この城は、光秀没落後に秀吉が築いたとされてきたが、黒井城の石垣と酷似しており、光秀の手になるものという説が有力になっている。こうしたことからは丹羽(にわ)長秀に匹敵する普請作事に優れた技術者集団を持っており、それを強みにしてのし上がっていったと分かる。

山崎の戦いの地
京都府大山崎町にある山崎合戦古戦場の碑(写真/ピクスタ )

なぜ光秀は秀吉に負けたのか

1582(天正10)年、光秀は本能寺の変で信長を殺し、一時的に天下人となる。だが山崎の戦いで、秀吉に破れて滅亡する。これは誰もがよく知る史実だが、山崎の戦いで光秀は、不利な形勢のまま不本意な戦いを強いられたように言われている。果たしてそれは真実だろうか。

2011年から始まった発掘調査で、大山崎の北方の光秀本陣付近で堀と土塁から成る遺構が発見された。終戦直後の航空写真などを参考にすると、長さは南北400㍍、東西200㍍で、幅は4〜5㍍もある土塁(どるい)を伴うT字形塁線で、淀川(よどがわ)に流れ込む小泉川(円明寺川)と小畑川を外堀代わりにした長大な防衛ラインとなっていた。これは光秀得意の普請技術を駆使し、秀吉に無二の一戦を挑むために造ったキルゾーン【注7】ではなかったか。

つまり光秀は、大山崎の隘路(あいろ)を抜けてきた羽柴勢を南北のラインで押しとどめ、東西のラインからの鉄砲攻撃で大打撃を与えようとしていたのではないか。というのも本能寺の変後に光秀が安土城を接収した際、大量の鉄砲や弾薬を手にした可能性が高く、この強力な火力を利用すれば、互角以上の戦いができるはずだからだ。

しかし現実はそうならなかった。その理由は雨だった。決戦当日、山崎付近は豪雨に見舞われ、鉄砲が使えなかったのだ。そうなれば兵力に勝る羽柴勢が有利になる。

得意の普請技術を駆使し、見事な防衛ラインを築いた光秀だったが、天候という不確定要素に敗れたのだ。

文/伊東 潤

天王山からの眺め
天王山から眺める山崎の戦いの地(写真/ピクスタ )

■プロフィール

伊東 潤( いとう じゅん)
1960年、神奈川県横浜市生まれ。歴史小説作家。2007年に『武田家滅亡』でデビュー。2013年、『国を蹴った男』で吉川英治文学新人賞、『巨鯨の海』で山田風太郎賞を受賞。過去5回、直木賞候補となる。著作に千利休の一代記を描いた『茶聖』がある


【注1】近江国…現在の滋賀県の旧国名

【注2】丹波国…現在の京都府中央部と兵庫県東部の旧国名

【注3】付城…出城。敵城を攻める際に相対して築く向かい城

【注4】虎口…出入り口。石垣・土塁を食い違いにして横向きに設けたり、枡形に四方を囲ったり、敵が攻めにくいよう工夫した

【注5】織豊系城郭…信長・秀吉とその配下に特徴的な造りの城

【注6】連郭式…本丸、二の丸、三の丸を並列させる縄張り

【注7】キルゾーン…軍事用語の一つで、敵を誘引して撃滅するポイント

 

(出典 2020年臨時増刊「100名城さんぽ」)

(ウェブ掲載 2020年12月30日)



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