謙信をも退けた“石垣の城”
堅固な石垣が広がり難攻不落の雰囲気が漂う大手虎口
“不落の城”と称された山城
平地に築かれた平城と違い、山城は山の頂や尾根に造られ、戦国時代は天守を持たない城が多かった。自然の地形を生かした堅固な要塞で、一度も攻め落とされず〝不落の城〟と呼ばれた城もある。
太田市中心部にそびえる標高239㍍の金山。その尾根筋に城域を広げる新田金山城もまた、〝不落の城〟と称された山城だ。
「朝起きて金山を眺めるんです。街を歩いていても、金山が視界に入るんです。地元の人にとって金山はシンボルで、親しみを持っています」と太田市文化財課の中村渉さんは話す。
太田一帯は、鎌倉幕府討幕を果たした武将、新田義貞ゆかりの地。義貞のひ孫にあたる岩松家純が築城したのが、新田金山城だ。約120年の間、上杉謙信、武田勝頼ら名だたる武将の攻撃を十数回も受けたが死守。1584(天正12)年に北条氏の支配下となり、1590(天正18)年に豊臣秀吉により北条氏が滅ぼされた後に廃城。最後まで〝落城〟はしなかった。
金山の麓にある史跡金山城跡ガイダンス施設では城の歴史を紹介し、火縄銃の弾丸や瓦など発掘品も展示している。登城前に知識を深めると、遺構を前にして当時の様子を想像しやすいだろう。
遺構調査、復元整備が進む
史跡金山城跡ガイダンス施設の前から山道を登り、城内を周遊する。歩き始めの山道は険しく、岩肌の露出も多い。途中、竪堀を横切り、城へ攻め込んでいるような気分になってきた。20分ほど登ると、西城跡に広がる駐車場に着いた。新田金山城は、頂にある実城(本丸)を中心に北・南・西方の尾根の高所に見張り場所を設けていた。西城はその一つだ。
尾根に沿って延びる散策路は、石畳などで整備され歩きやすい。1995年から遺構調査が進められ、発掘・測量結果や、1701(元禄14)年に作成された「元禄太田金山絵図」などを基に、城域の一部が復元整備されている。
ほどなく、西矢倉台西堀切と西矢倉台下堀切があった。堀切は、尾根や丘陵の一部を垂直に掘って通り道を遮断した防御施設だ。
その先が、物見台下虎口。奥を見せないよう石積みされ、左上の物見台から敵の侵入を監視していた。すぐ脇には岩盤がむき出しの物見台下堀切が広がり、岩盤を削った跡が残っている。
「金山は凝灰岩の岩盤が広がり、堀切の造成などで削り出した岩は石垣の石材にしたと思われます。この城に石垣が多いのはそのためだと思います」と中村さんが教えてくれた。
幕府直轄林として守られた遺構
〝石垣の城〟を象徴するのが、この先、三の丸と南曲輪に挟まれた大手虎口。実城域への入り口だ。土塁も大手道も石造りで、石垣のひな壇に囲まれているよう。大手道は不規則な段差を付けた石敷きで、曲線を描いて奥へ進むほど緩やかに幅が狭まっている。
石垣は敵に対して威嚇、味方には威厳として映ったであろう。一度も、この中枢部に敵兵が攻め込めなかったことも納得できる。
南曲輪に上がると、太田の街を見渡せる。秋、冬の晴天時は、高い確率で富士山や東京スカイツリーまで望めるという。
南曲輪を後にして日ノ池をぐるりと回った高台が実城だ。跡地には、新田義貞を祀る新田神社が鎮座する。社殿の裏手、竹林が広がる二の丸との間の堀切を抜けると、残存石垣がある。崩れることなく現存する実城の石垣だ。
発掘調査はまだ一部で、手つかずの遺構は多い。廃城後は土砂に埋没し、アカマツが生い茂っていた。江戸時代には将軍家へ献上するマツタケの産地として、「金山御林」の名で厳しく管理された。
結果的に山林開発など人的破壊を免れ、良い状態で遺構は保存されてきた。山城では、遺構から想像を膨らませるのが楽しい。登りは攻め入る側、下りは守る側の気持ちで歩いてみてほしい。
<問い合わせ>
新田金山城 TEL:0276-20-7090(太田市教育委員会文化財課)
史跡金山城跡ガイダンス施設 TEL:0276-25-1067
(出典「旅行読売」2021年12月号)
(ウェブ掲載2021年12月20日)