地中海の島国マルタへの旅(3)キリスト教世界の最前線を守った「要塞都市」
上空から見たヴァレッタはまさに要塞都市だ Image by viewingmalta.com
マルタへ飛行機で到着する時、天候がよければ、首都ヴァレッタの様子を上空から見ることができる。市街地の周りは堅固な城壁に囲まれており、あちこちに、かつて外敵の来襲を見張ったであろう塔が見える。有事ともなれば、城壁の内側には大砲や兵士たちが並び、外敵を迎え撃ったのだろう。まるで都市全体が要塞のようだ。
マルタは、長い長い年月の間、地中海の北側のキリスト教世界と南側のイスラム教世界の間の最前線として、何度となく激しい攻防戦が繰り広げられた。
イタリア・シチリア島の南、そしてアフリカ大陸とのちょうど中間地点にあるこの地にキリスト教が伝わったのは紀元60年ごろだとされる。ローマ帝国に捕らえられた聖パウロを乗せた船が、ローマに向かう途中、嵐によって難破。乗っていた他の人々とともに、聖パウロが上陸した。この当時、マルタにはローマの支配が及んでいた。ここから起算すると、マルタでのキリスト教の歴史は約2000年近くという長きにわたっている。
ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(在位1978年~2005年)は、マルタを合計3度訪問している。訪問は1990年に、5月と9月の2回。そして2001年5月の訪問は、ギリシャ、シリアと合わせ、聖パウロの足跡をたどる旅だった。
その後、ローマ帝国の東西分裂やゲルマン人の侵攻があり、マルタの支配者は転々と変わっていった。
一方、7世紀のアラビア半島でイスラム教が勃興し、中東で勢力範囲を広げた8世紀には北アフリカ、ヨーロッパ大陸のイベリア半島を支配。一時はフランスに侵攻した。イスラム勢力は867年にはマルタを攻撃、870年には支配下に置いた。1090年には、シチリアからキリスト教勢力が攻め込み、イスラム教勢力による支配は終わった。
様々なキリスト教国の支配を経て、1530年に、聖ヨハネ騎士団がマルタに入り、イスラム教勢力の侵攻に備えることとなった。
聖ヨハネ騎士団はどのような歴史をたどり、どんな経緯からマルタに拠点を持つことになったのだろうか。
聖ヨハネ騎士団の起源は1023年に聖地エルサレムの聖ヨハネ修道院跡に建設された巡礼者宿泊施設兼病院にさかのぼる。11世紀からは騎士団として、聖地巡礼に赴くキリスト教徒の保護などにあたるようになった。聖地エルサレムがイスラム教勢力の手に落ちると、現在のイスラエル北部にあったアッコン、そして地中海のキプロス島へと拠点を移していく。1309年には、東ローマ帝国領だったロードス島を占領して移転し、ロードス騎士団とも呼ばれるようになる。
1522年、イスラム教勢力の中心だったオスマン・トルコ帝国が約400隻に約20万人といわれる大軍でロードス島を攻撃。騎士団側兵力は約7000人で、よく持ちこたえたものの、結局、騎士団はロードス島を明け渡してシチリア島へ退去した。
その当時のスペイン国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝としてはカール5世)はハプスブルグ家の絶頂期の君主としてオスマン・トルコ帝国の勢力拡大に対抗していた。そこで屈強な聖ヨハネ騎士団をマルタに移れるようあっせんし、オスマン・トルコ帝国への備えとしたのである。
聖ヨハネ騎士団は、今度はマルタ騎士団とも呼ばれるようになる。1565年に、オスマン・トルコ帝国の大軍がマルタを攻撃。騎士団はよくもちこたえ、スペインからの援軍などもあって、かろうじて撃退に成功した。
撃退に成功した時の騎士団長(グランドマスター)はジャン・パリゾ・ド・ラ・ヴァレット。この勝利のあと、現在の首都ヴァレッタが建設された。「ヴァレッタ」は、騎士団長「ヴァレット」にちなんで名付けられた。難攻不落の要塞都市ヴァレッタの完成は1571年だ。
世界遺産に登録されているヴァレッタ市街地
ヴァレッタには、当時の街路や建造物がよく保存されており、市街地は1980年に世界遺産に登録された。
こうした歴史的背景もあって、マルタの住民のほとんどがカトリック信者だ。生活のすみずみにまでカトリックが影響を及ぼしているようで、公営バスに乗った時も、サングラスをかけたちょっといかつい感じの運転手さんが、運転席の窓近くに「イエス・キリスト」像など数枚のカードを置いているのが見えた。
(出典:「旅行読売」2019年6月号、「たびよみ」転載に際し大幅に加筆しました)