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地中海の島国マルタへの旅(4)今日に伝わる騎士団の建物、甲冑

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地中海の島国マルタへの旅(4)今日に伝わる騎士団の建物、甲冑

騎士団長の宮殿、廊下には騎士の甲冑が並ぶImage by viewingmalta.com

ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)が防備するマルタにオスマン・トルコ帝国の大軍が包囲戦を行ったのは1565年。包囲側は約180隻に4万人の兵力。徹底抗戦を指揮した騎士団長はジャン・パリゾ・ド・ラ・ヴァレットで、兵力は騎士団600人、マルタ人兵士700人とわずかだったが、なんとか持ちこたえた。

首都ヴァレッタ中心部にある騎士団長の館は、建物の一部が見学可能だ。この建物は、ヴァレットの没後に騎士団長となったピエトロ・デル・モンテが建設を命じた建物で、1574年に完成している。

建物の一部は大統領の執務室など政府機関が使用している。

見学可能な部分には、かつての騎士団長が織らせたというアフリカ、インドの風物を描写したタペストリー、オスマン・トルコ帝国による大包囲戦の様子を描いた欄間絵などがある。廊下に並ぶ中世の甲冑は本物だ。

マルタ騎士団(聖ヨハネ騎士団)のマルタ支配は1798年にあっけなく終わった。エジプトに遠征する途中、ナポレオン率いるフランス軍が「補給」を理由に寄港し、占領したからだ。その後、英領となり、1964年に独立した。

往時の騎士団内部では、欧州各地の言語圏を基本にして軍団が組織されていた。欧州各地からメンバーが集まっていたからだ。14世紀の軍団は7つ。イタリア軍団、ドイツ軍団、イングランド軍団があったほか、フランスはフランス軍団や南部プロバンス語圏を中心にしたプロバンス軍団など3つにわかれていた。スペイン地域はスペイン東部地域にあった「アラゴン王国」の名をとってアラゴン軍団と呼ばれていた。

軍団はそれぞれの本部として「騎士館」を持っていた。

15世紀には、アラゴン軍団から、イベリア半島の中央部を占める「カスティーリャ」「レオン」や西部「ポルトガル」出身者を分離して、「カスティーリャ=レオン=ポルトガル」軍団が新設された。軍団の組織変更は時折行われた。

1570年代にヴァレッタで建てられた「カスティーリャ」出身者のための騎士館は、18世紀に建て替えられたが、現在その建物は首相府として使われている。

地中海の島国マルタへの旅(5)

首相府はかつて「カスティーリャ」出身者の騎士館だったという
首相府はかつて「カスティーリャ」出身者の騎士館だったという

(出典:「旅行読売」20196月号、「たびよみ」転載に際し大幅に加筆しました)

Writer

藤原善晴 さん

月刊「旅行読売」編集部に2019年12月まで勤務。現在読売新聞東京本社文化部。瀬戸内海が見晴らせる広島県安芸津町風早(現・東広島市)生まれ。レトロブームということもあり、最近は「昭和」という言葉に敏感に反応。また、故郷が「令和」の典拠となった万葉集ゆかりの地であるため、福岡県太宰府市、奈良県、富山県高岡市、鳥取県など各地の「万葉集」ゆかりのニュースにも目を光らせている。

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