【和食の原点、ここにあり。】豊かな食が“人のやさしさ”を作る、福井県・敦賀市へ
北前船の往来など古くから交通の要衝で栄えた敦賀は、日本海側で初めて鉄道が走った地でもある。明治の終わり、東京駅を夜に出発した欧亜国際連絡列車は翌日昼前に敦賀港駅に到着。乗客は定期船でロシアのウラジオストクに渡り、そこからシベリア鉄道でパリに向かった。2週間の日程は船旅の半分だったという。今も港に残る赤レンガ倉庫からは往時の繁栄ぶりがうかがえる。
2020年11月にリニューアルオープンした「人道の港敦賀ムゼウム」は、国際列車が発着した敦賀港駅舎など4棟の建物をもとに復元された。ムゼウムはポーランド語のミュージアム。館内には大正から昭和にかけて、大陸から敦賀に逃れてきたポーランド孤児とユダヤ難民の苦難の記録が展示されている。
ポーランド独立運動でシベリアに流され、戦火で親を失った子供たち。大正時代の日本は763人の孤児を受け入れ、敦賀の人々は菓子や玩具を贈るなど温かい手を差し伸べたという。リトアニアの副領事・杉原千畝(ちうね)がナチスドイツの迫害を受けたユダヤ難民に命のビザを発行したことは知られている。彼らが上陸したのが敦賀港だった。この時も、人々は命のバトンを受け継ぎ、難民の子孫との交流は今も続いている。
もう一つ訪れたい場所が、日本三大松原の一つ「気比の松原」の近くにある松原神社と武田耕雲斎等の墓。幕末に尊王攘夷を唱えて挙兵した水戸天狗党の内353人がこの地で処刑された。神社には彼らを監禁したニシン蔵が残され、墓石には一人一人の名前が刻まれている。縁もゆかりもなかった敦賀の人々が、丁寧に弔い続けていることに豊かな食と自然に育まれた敦賀人気質を見た。
【和食の原点、ここにあり。】若狭の食文化を育んだ自然がここに……三方五湖へ
問い合わせ 若狭湾観光連盟
(出典「旅行読売」2021年2月号)
(ウェブ掲載 2021年3月24日)