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旅へ。(第20回 富士山と葛飾北斎)

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旅へ。(第20回 富士山と葛飾北斎)

御坂峠からの富士山

 

夏富士の湖面に映る雪景色 「甲州三坂水面」のイリュージョン

暗く、長い隧道(ずいどう)を抜けると、まぶしい光に包まれ、思わず息をのんだ。巨大な富士が青空に浮かんでいる。両袖を左右に伸ばした濃紺のシルエット。雪の頂に雲が流れ、冬の日差しを浴びた湖面が輝いている。甲府盆地から富士五湖の河口湖へ。御坂(みさか)峠からの眺望は富士三景の一つ、葛飾北斎の「甲州三坂水面(こうしゅうみさかすいめん)」で知られる、天下の絶景である。

それは、不思議な絵だ。富嶽(ふがく)三十六景は1830年代に版行された名所絵。夜明けの赤富士「凱風快晴(がいふうかいせい)」、大波がうねる「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」など著名な作品に比べれば地味だが、奇抜さにかけては、この一枚はずぬけている。静かな夏の光景。しかし、湖面に目を落とすと、逆さ富士は雪景色、時までもが逆転している。北斎はなぜ、イリュージョンをこの絵に仕掛けたのだろうか。

一軒の茶屋が峠にある。開業は版行から100年後の1934年。新聞に天下一の絶景と紹介され、天下茶屋と命名された。4年後、29歳の太宰治が逗留(とうりゅう)し、小説『富嶽百景』を書いた。「風呂屋のペンキ絵」と彼は富士を拒絶する。「『天下第一』の風景にはつねに驚きが伴わなければならぬ。(略)人間に無関心な自然の精神、自然の宗教、そのようなものが、美しい風景にもやはり絶対に必要である」。しかし、夏から冬へ、刻々と姿を変える自然の姿に、「藁(わら)一すぢの自負」にすがる太宰の心は溶かされ、つぶやくのである。

富士には月見草がよく似合ふ。

峠の茶屋で、イリュージョンの謎に思いを巡らせた。逆さ富士に極寒の季節を予感させ、穏やかな装いにも、孤高の精神が秘められていることを暗示したのだろうか。厳しさと優しさが混然となり、北斎の富士は様々な顔を見せる。日本橋の賑わい、水車が回る渋谷の田園風景、浅草の空に舞う凧(たこ)……。江戸の暮らしが描かれた絵では寡黙な脇役に徹し、庶民の営みを見守っているかのようである。

不安に覆われた一年が終わる。茜(あかね)色に染まった東京の空に、小さなシルエットが映し出された。「わー、きれい」。子どもたちが無邪気にはしゃぐ日常がいとおしい。天下一でなくとも、富士はただそこにいてくれるだけでいい。

新年が希望の年となりますように。

 


(掲載:「旅行読売」2022年2月号)

(Web掲載:2022年1月30日)


Writer

三沢明彦 さん

元「旅行読売」編集長

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