旅へ。(第16回 佐原と伊能忠敬)
五十路からの第二の人生 日本地図を作った伊能忠敬
70歳定年の時代という。人生100年、新しいスキルを学び直せ――。長寿社会への備えという事情は理解できる。しかし、「余生などと呑気(のんき)なことを言っている場合ではない」と尻を叩かれているようでもあり、高齢者の仲間入りをした私にとっては、なんとも居心地が悪い。
井上ひさしの小説『四千万歩の男』は江戸時代に日本地図を完成させた伊能忠敬(いのう・ただたか/1745年~1818年)の物語である。前半生は経営者。17歳で入り婿になった商家の資産を大きく増やしたというから、やはり商才があったのだろう。50歳で引退。江戸では19歳年下の師匠の門弟となって天文学や測量を学び、55歳から17年間かけて列島の海岸線を歩き続けた。井上は「人生の達人」と称え、小説の序文にこう書いている。
「人生の山が一つから二つにふえた。われわれの大半が『一身にして二生を経る』という生き方を余儀なくされている」
長い老後をどう生きるか。迷いを抱えながら、水郷の町、佐原(千葉県香取市)を訪ねた。小野川の河岸には土蔵造りの旧家が軒を連ねる。「江戸まさり」と唄(うた)われた町の一角、忠敬旧宅の中庭に家訓書碑を見つけた。
身の上の人ハ(は)勿論(もちろん)身下の人にても教訓異見あらハ(ば)急度(きっと)相用堅く守るへし
年齢も身分も関係ない。新しい知識を学ばなければ時代に取り残される、ということか。測量の旅は3万5000㌔、地球一周に迫る。「一歩一歩はまことに平凡である。だが、その平凡な一歩を支えているのは感動的なほど愚直な意志である」と井上は書いている。
帰りの車中、老いの指南書をめくると、歴史に名を残した賢人たちも揺れていた。哲学者プラトンは「経験知を生かせ」と温かいが、アリストテレスは「自己中心的になり、早く引退せよ」と厳しい。迷いが深まる中で、こんな言葉に目が留まった。
老人は孤独なのではなく、毅然としている。無力なのではなく、穏やか。頭の回転が鈍いのではなく、思慮深いのだ。(一条真也『老福論』より)
そう置き換えてもらえば、少しは前向きになれる。老いと向き合い、つまらないプライドから自由になれば、険しい山は無理でも、なだらかな丘ぐらいは、とも思えてくる。
(出典:「旅行読売」2021年10月号)
(Web掲載:2021年10月16日)