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【家康の城へ】徳川家康 知っておきたいエピソード3選

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【家康の城へ】徳川家康 知っておきたいエピソード3選

「人質」時代の竹千代を描いた「教導立志基(きょうど うりっしのもとい)」(明治中期に刊行された歴史的教 訓シリーズ。小林清親筆。東京都立中央図書館蔵)

 

家康は今川家の人質ではなかった?

2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」で注目されている徳川家康は、日本史にあまりにも偉大な足跡を残した。その長い人生には謎も多いが、今知っておきたい三つのエピソードを紹介しよう(なお以下、まだ大河ドラマに出てきていないネタバレを含みます)。

三河の国衆(小規模な大名)である松平家は、尾張(おわり)の織田氏、駿河(するが)の今川氏という戦国大名に従属しなければ生き残れなかった。そのために幼少期の家康(当時は竹千代)は、今川家で数え8歳から19歳まで人質生活を送ったとされてきた。

しかし、実際には人質という印象とはだいぶ違ったようだ。父の松平広忠が早くに亡くなってしまったため、竹千代は8歳にして松平家の当主とならざるを得なかった。今川義元は、竹千代を駿河に招いて庇護(ひご)下に置き、一人前の武将として養育しようとしたのだ。

織田氏と国境を接する松平氏は、今川氏にとって重要な配下の国衆だった。義元は自らの師匠でもあった雪斎(せっさい)という高僧を竹千代の先生にして武将としてのエリート教育を施し、さらに今川一門の女性築山殿(つきやまどの)と結婚させている。いかに竹千代に期待していたかが分かるだろう。

家康はなぜ何度も名前を変えたのか?

誕生後、竹千代と名付けられた家康は、数え8歳から今川氏のもとで育てられ、14歳の時に元服。今川義元に「元」の字をもらい「元信」と名乗った。父代わりとなった義元への忠誠を誓う意味もあったろう。

そして17歳の時、初陣を飾った。この時、岡崎城に残してきた家臣たちを率いて戦っている。その直後に「元康」と改名。これは、祖父松平清康の「康」の字にちなんだものだ。いまだ今川氏の庇護下にあるとはいえ、家康は自分が松平家の当主として自立するという覚悟を示したのだろう。家康の留守を預かってきた家臣たちは、家康のこの覚悟に奮い立ったに違いない。

家康が19歳の時、桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にし、家康は今川家から自立して、翌年、織田信長と講和して同盟関係となる。その翌年、今川家に置き去りにしてきた妻と子が、交渉によって岡崎に戻ってきた。これを見計らって、22歳の家康は元康から「家康」と名を改めた。義元からもらい受けた「元」の字を捨てたわけだ。

これは、完全に今川家と手切れをするという意志の表れであり、それを同盟相手の信長に見せつけ、同盟の絆(きずな)をより強くしようという意図があったと考えられている。

家康の度重なる改名には、すべて政治的な「意味」があったのだ。

徳川家康書状に見る「家康」の署名と花押 (九州国立博物館蔵。ColBase)。上下に2本の水平線を引き、その間に縦線、曲線、点を配置し た「明朝体の花押」。 家康がこの型を使ってから、江戸時代前期の武家花押の定番となった

正室の築山殿と嫡男の信康を殺害したのは?

家康が38歳の時、正室の築山殿が殺害され、嫡男の信康が自害に追い込まれるという「事件」が起きた。

織田信長の長女で信康の正室となっていた徳姫が、夫の悪行を書き上げた文書を、重臣の酒井忠次に託して信長に提出。信長がその内容を忠次に問いただしたところ、なぜか忠次は一切弁明をしなかったため、信長は家康に2人の殺害を命じたという。さらに、築山殿と信康が敵の武田勝頼に内通していたことも、殺害の原因の一つだったと語られてきた。

しかし、どうも事件の真相は別にあるようだ。当時、家康と信康は不仲になっていて、信康は家臣からも見放された状態だったことが明らかになっている。当時、家康は浜松城に本拠を移し、信康と築山殿は岡崎城にいた。家臣団のなかでも、家康に近い浜松派と信康を奉じる岡崎派の対立があった。家康は、何としても問題を解決して家中の分裂を防ぐ必要と責任があった。さらにいえば、当時、家族の処断は家長の権限に属するというのが常識で、たとえ信長であっても、家康の妻子に死を命じる権限などなかったのだ。

信康と築山殿が武田氏に内通していたのは、あるいは事実かもしれない。しかし、2人に死を命じたのは、あくまでも家康であり、信長はその許可を与えたにすぎなかったのだ。

文/安田清人

1579(天正7)年、築山殿を殺害した時の血刀を洗ったとされる太刀洗の池(静岡県浜松市中区、現在は工事中のため見学不可)

安田清人(やすだ きよと)

1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊「歴史読本」(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は編集プロダクション「三猿舎(さんえんしゃ)」代表。歴史関連メディアの編集、執筆、監修などを手掛けている。

 

(出典:「旅行読売」2023年2月号)

(Web掲載:2023年2月11日)

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Writer

安田清人 さん

安田清人(やすだ きよと)
1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊「歴史読本」(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は編集プロダクション「三猿舎(さんえんしゃ)」代表。歴史関連メディアの編集、執筆、監修などを手掛けている。

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