”伊賀越え”から”伏見”へ 家康が逃げた道、天下を取った町(1)
木津川を渡り現在の宇治田原町を抜けた家康の「伊賀越え」を遠望できる甘南備山。神宿る山として信仰を集め、平安京の中心軸の南の起点になったとも言われる。登山道入口から展望台まで徒歩で約1 時間。TEL.0774-68-2810(京田辺市駅ナカ案内所)
「本能寺の変」後の逃避行の道「伊賀越え」と、征夷大将軍に任命された町「伏見」。徳川家康の転機となった舞台、京都。家康の運命と選択の地を訪ねる。
岡崎を目指しひたすら東へ
1582年(天正10年)6月。堺から京へ向かう途上で織田信長の死を知り、一時は自刃をも覚悟した徳川家康。「家康公、生涯第一の艱難也」(『東照宮御実記』)の危機に「さて、どうする?」と悩んだ末に選んだのが、三河・岡崎城へ生きて帰る、全長約200㌖に及ぶ「伊賀越え」だ。
そのルートは諸説あるが、人目を避け、家康と10人余の家臣団は現在の京田辺市の甘南備山付近を通り、東へ急いだと伝わる。東麓にある酬恩庵は「一休さん」で知られる一休禅師が再興。方丈や庫裏、唐門、禅師が自らの髪を植毛した一休和尚坐像は重要文化財。境内には「このはしわたるべからず」の橋がある。
観音寺は大御堂や普賢寺の名でも呼ばれ、近郊の村落で家康一行が夜を明かしたという。本尊の十一面観音立像は国宝で、珍しい木心乾漆造の天平仏。静かなたたずまいで、間近に尊顔を拝める。
木津川の流れは家康一行の進路を阻んだ。草内の渡し場から柴を運ぶ船に無理やり乗り込み、何とか対岸へ渡ったが、一日遅れた重臣・穴山梅雪は渡岸前に襲われ落命してしまう。悲運を偲び葬られた飯岡の地はいま、日本一の品質を誇る特産品・玉露の茶畑が広がる。
京田辺市産の玉露は全国茶品評会の最高峰・農林水産大臣賞を18回受賞。「京たなべ玉露庵」は、高級玉露を自ら淹れて味わう体験ができる。
〝ここだけの、私だけの〞玉露の旨味を三煎、四煎と堪能しながら、神君となる前の人間・家康の一世一代の決断に、改めて想いを馳せてみたい