たびよみ

旅の魅力を発信する
メディアサイト
menu

【山崎・勝龍寺城】本能寺の変から山崎の合戦 明智光秀、晩年のゆかりの地へ

場所
> 大山崎町、長岡京市
【山崎・勝龍寺城】本能寺の変から山崎の合戦  明智光秀、晩年のゆかりの地へ

石碑が立つ山崎合戦古戦場。奥に見えるのが天王山


春の自粛期間が幸いしてか、今年は久しぶりにNHK大河ドラマをじっくる見る時間に恵まれた。いつの間にか戦国武将らの人間ドラマに魅了され、いつもなら憂鬱な気分になる日曜の夜が、今は待ち遠しくなっている。ドラマが佳境に入る今、終盤の舞台となる本能寺、山崎の戦いの地、光秀が落命前に立ち寄ったという勝龍寺城などを巡り、光秀の姿を追った。

まずは本能寺へ。本能寺は京都市中京区の京都市役所前にあるが、この地へは天正10(1582)年の本能寺の変の9年後に、豊臣秀吉の命により移転させられた。歴史的事件が起きた場所は、ここから西南へ2㌔ほどの所だ。その本能寺跡を訪ねると、住宅街の一角の路地に解説文を添えた石碑が立つのみ。やや拍子抜けしたが、その地に立ちその場の空気を吸えただけでも、光秀を探す旅において不満はない。

対照的に現在の本能寺は参拝者が絶えない。織田信長の三男信孝が建立したという信長公廟もあり、信長所持の太刀が納められている。

京都市中京区に残る本能寺跡
現在の本能寺境内にある信長公廟

天王山から古戦場を一望

光秀は本能寺を奇襲した後、本能寺→坂本城→安土城→坂本城→京都と目まぐるしく移動した。その間、政権樹立に向けて朝廷工作にも奔走した。しかし本能寺の変からわずか11日後、同じく信長の家臣であった羽柴秀吉と戦い、敗れ去った。山崎の戦いである。

東海道線山崎駅から北へ2・5㌔ほど、天王山夢ほたる公園の一角に、「天下分け目の天王山 山崎合戦古戦場」と彫られた石碑が立っていた。合戦の場は広域に及んだが、この辺りは両軍が激しく衝突した場所という。ここもまた、当時をしのぶ遺構などは何もない。頭上を京都縦貫道が通り、大山崎JCTが大蛇のごとくそびえている。すぐ近くを流れる小泉川を挟んで両軍は対峙したというが、河畔に立つと石を投げれば簡単に届くほど川幅は狭かった。石碑に触れ、地面を踏み締め、川べりの草をなでるくらいしか、ここで命を落とした多くの兵を弔う術はなかった。

石碑の背後にそびえる山が、「天下分け目……」の由来にもなった天王山だ。秀吉は戦場を見下ろせる天王山を押さえて有利に立ったという。標高は270㍍。ハイキングコースが整備されているので登ってみた。

東海道線山崎駅から秀吉が本陣を設けたという宝積寺を経て、8合目の旗立松展望台まで40分ほど。秀吉軍が士気を高めるために松の木に千成瓢箪の旗印を立てたことが由来という展望台からは、合戦の地から京都方面までを一望。高速道路が古戦場を貫き、巨大な工場が林立し住宅街が広がる景色は爽快だが、光秀が追い詰められていった経緯を思い起こすと切なさが募った。天王山直下のトンネルに入る新幹線の走行音に、一帯に響き渡ったという火縄銃の音がふと重なった。

「光秀はひとりで兵を集めて戦をして手柄を立てた。軍法も制定した。他人への気配りも十分で、優しさも兼ね備えていた。信長のために尽くした。その反面、信長の弱点も知り尽くしていた。アンバランスな人間性も含めて。それゆえ進言もしたが、それが受け入れられなかった時……」

光秀の本心を知ることは不可能だが、大山崎町歴史資料館の館長で光秀の研究者でもある福島克彦さんのこの言葉を思い出した。

天王山8合目の旗立松展望台からの眺め。古戦場の面影はなく、発展した街並みが広がる
近くを流れる小泉川。西に秀吉軍、東に明智軍が構えて対峙したという

一縷の望みを抱いて戻った城

旅の最後に、長岡京市の勝龍寺城に寄った。天正6(1578)年、光秀の娘・玉(ガラシャ)は細川忠興に嫁ぎ、ここで2年間の新婚生活を送った。城跡は1992年に勝竜寺城公園として整備され、堀や土塁が美しい。石垣の一部として用いられた石仏、五輪塔なども見られる。

光秀は山崎の戦いに敗れた後、この城にいったん戻ったが、20人ほどの兵を連れて北門から脱出したといわれる。本拠の坂本城を目指すが最後は3人のみになり、落ち武者狩りにあい殺されたという。公園の美しさとはあまりに対照的な光秀の哀しい最期を想像するのは辛かった。

「麒麟がくる」のオープニング映像が脳裏をよぎった。炎に包まれ雄叫びを上げる光秀。そのシーンはまさに本能寺の変の暗示だと私は思う。ドラマをきっかけに歴史を見直し、舞台となった地を訪ねる。そんな旅の楽しみを教えてくれたのは、光秀であった。

文/渡辺貴由 写真/齋藤雄輝

 

勝龍寺城は元亀2(1571)年に織田信長の命を受けた細川藤孝が臨時的な砦(とりで)を当時最先端の城郭に造り変えた
当時の石垣(写真の下半分部分)も残っている
北門の枡形虎口(こぐち)付近。光秀は写真の左方向へ脱出した

■山崎の戦いとは

天正10(1582)年6月13日、織田信長を討った明智光秀と、本能寺の変の知らせを聞いてすぐさま備中高松城の攻城戦から引き返した羽柴秀吉の戦い。摂津国と山城国の境に位置する山崎、現在の京都府大山崎町一帯において、光秀軍1万6000、羽柴軍4万の兵が戦った。この地が決戦の場となったのは、光秀を討とうと西から京都へ迫る敵を防ぐには唯一の関門ともいえる場所だったからと推測される。

戦闘が始まると光秀軍は戦力に勝る秀吉軍に次第に押され、わずか1時間半ほどで秀吉軍の勝利に終わったという。光秀はいったん勝龍寺城に逃げ込むが坂本城を目指して脱出。その途中で落命した。

■問い合わせ
・本能寺 6時~17時/無休/無料(大寶殿宝物館は9時~16時30分)/年末年始、展示替え日休/500円/地下鉄東西線市役所前駅からすぐ/TEL:075-231-5335
・勝竜寺城公園 9時~17時(4月~10月は~18時)/12月28日~1月4日休/無料/東海道線長岡京駅から徒歩10分/TEL:075-955-9515(長岡京市観光課)

 

(出典 2020年臨時増刊「100名城さんぽ」)

(ウェブ掲載 2021年2月7日)



Writer

渡辺貴由 さん

栃木県栃木市生まれ。旅行情報誌制作に30年近く携わり、全国各地を取材。現在、月刊「旅行読売」編集部副編集長。プライベートではスケジュールに従った「旅行」より、行き当たりばったりの「旅」が好き。温泉が好きだが、硫黄泉が苦手なのが玉に瑕(きず)。自宅では愛犬チワワに癒やされる日々。

Related stories

関連記事

Related tours

この記事を見た人はこんなツアーを見ています