金ヶ崎城(福井・敦賀市)
信長が挟撃を恐れて退却 「殿(しんがり)」を務めたのは光秀?
国吉城に陣取った〝幕府軍〞は元亀元(1570)年4月25日、越前・敦賀に侵入。織田信長らは天筒山ま城に続き、金ヶ崎城も落として入城した。だが翌26日、朝倉義景の本拠地・一乗谷を目指して進軍を図ろうとした矢先に、北近江の浅井 長政が朝倉氏に味方する動きをみせたため、挟撃を恐れて撤退に追い込まれた。
現在は碑が立つだけの金ヶ崎城だが、有名な「金ヶ崎の退き口」の舞台として知られる。
問題は信長らを誰がどう逃がしたか。木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が「殿」を務めて大手柄を立てたとされているが、金崎き宮の田村典男宮司は「当時の地位を考えると、秀吉が殿の中心だったとは思えない。事務処理能力の高い明智光秀あたりが中心だったのでは」と推測する。
信長の退却を描いた大河ドラマ「麒麟がくる」(第31回)では、光秀と秀吉がともに殿を務めていたが……。真相やいかに。
■金ヶ崎城とは
敦賀市にある山城。「金ヶ崎城跡」として、国の史跡に指定されている。南北朝期の1336年、新田義貞が後醍醐天皇の皇子らとともに籠城したものの、翌年、足利軍に敗れて落城した。1570年の「金ヶ崎の退き口」では、信長の妹で浅井長政の妻であるお市の方が、両端を結んだ小豆の入った袋を信長に送り、挟み撃ちになる危険を知らせたとの伝承が残る。後世の創作と言われている。
■データ
金ヶ崎城跡:参観は自由/無休/無料/TEL:0770-22-0938(金崎宮社務所)/北陸線敦賀駅から「ぐるっと敦賀周遊バス」8分、金崎宮下車すぐ/北陸道敦賀ICから国道476号(または県道210号)経由3.5㌔
(旅行読売2021年1月号掲載)
(ウェブ掲載2021年1月1日)