謎多き智将 明智光秀の京都へ
信長と出会い、歴史の表舞台へ
主君を討った“逆臣”か、領民が慕った“名君”か。戦国武将、明智光秀。京都に残る、その実像とは―。
智将、文化人、愛妻家、そして三日天下……。明智光秀ほど多面的な戦国武将はいないのではないか。謎も多い。清和源氏の土岐氏の庶流と自ら名乗り、美濃(現・岐阜県)出身との説が有力だが、詳しい出生地や生年はわかっていない。
歴史の表舞台に登場するのは、織田信長と出会ってからだ。1568年、越前・朝倉氏に身を寄せていた室町幕府15代将軍・足利義昭が、信長の力を頼り上洛。当時義昭に仕えていた光秀も同行し、信長と出会ったとされる。以後「天下布武」を掲げる信長の重臣となり、各地を転戦する。
丹波平定、そして本能寺へ
1575年、光秀は丹波攻略を信長に命じられる。丹波は現在の京都府中部から兵庫県東部にかけての地域。山間にあり、内藤氏、波多野氏などの国人衆の勢力が強く、極めて治めにくい地だった。
攻略の拠点として1577年頃に築かれたのが、丹波亀山城だ。さらに、続く西国攻略の拠点として福知山城を築く。1579年、光秀は5年をかけて丹波を平定。その働きに対し、信長は家臣に宛てた書状で「天下の面目をほどこし候」と賞賛している。
丹波で光秀は善政をしいた。福知山では城下町を整備し、氾濫する川を治め、税である地子銭を免除し、経済発展に注力した。丹波亀山では近隣の村人を呼び寄せて城下町を作った。しかし、その2年後に「本能寺の変」を起こす。その動機は未だ謎だ。
名君・光秀が語り継がれる京都。ゆかりの地を訪ねて、知られざるその素顔に触れてみたい。
2020年大河ドラマ「麒麟がくる」で描かれる明智光秀の基礎知識
美濃出身とされ、生年は不明。足利義昭に仕えた後、織田家の重臣に。1579年丹波平定。1582年京・本能寺で信長を討つ。11日後、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れる。側室を置かず、正室・熙子だけを愛した。三女・玉(ガラシャ)は盟友・細川幽斎の嫡男・忠興に嫁ぐ。家紋は水色桔梗。
問い合わせ
大河ドラマ「麒麟がくる」推進協議会事務局
TEL 0773-24-7076(福知山市産業観光課内)
(出典 「旅行読売」2019年2月号)
(ウェブ掲載 2019年10月1日)