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好機も危機も近江にあり~徳川家康ゆかりの滋賀へ~

場所
> 近江八幡市、長浜市、甲賀市
好機も危機も近江にあり~徳川家康ゆかりの滋賀へ~

安土城は1579(天正7)年完成。信長が住んだ天主は五層七重で高さ33㍍。現在は石垣、大手道と天主跡の礎石が残る

姉川、安土、伊賀と甲賀――。 近江の地でピンチを乗り越え、 チャンスをつかんだ徳川家康。 400年前の転機の舞台を訪ねる。

"34対1万3000"の大ピンチ

1582(天正10)年5月、徳川家康は近江にいた。織田信長から武田討伐の礼と戦勝祝賀を受けるため、武田から寝返った穴山信君(梅雪)を伴い、安土城を訪ねていた。家康の好物の鯛やアワビ、名物の鮒ずしなど、饗応役の明智光秀は各地から食材を取り寄せ、その歓待は3日間にもおよんだ。しかし、供された魚のにおいが信長の怒りを買い、光秀は宴席の場で叱責されてしまう。

安土での饗応から間もない6月2日、光秀は京・本能寺で信長を自刃に追い込む。安土から京、大坂を経て堺を見物していた家康は「本能寺の変」の報を受ける。同行する家臣は酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政など34人。精鋭ぞろいとはいえ、明智勢1万3000には多勢に無勢。一時は自刃を覚悟した家康だが、本多忠勝の説得で岡崎城まで逃げ帰ることを決意する。徳川家康三大危機の一つ「伊賀越え」だ。

御斎峠
御斎(おとぎ)峠は三重県伊賀市西山と滋賀県甲賀市信楽町多羅尾を結ぶ標高約600㍍にある峠。家康が伊賀衆・甲賀衆の案内で越えたといわれる。
小川城跡
小川城跡 は1305(嘉元3)年築城。安土・桃山時代に多羅尾氏が再興。家康が伊賀越えで一夜を明かしたとされる。信楽の町並みが一望できる城山山頂にある
「伊賀越え」は「甲賀越え」だった?

当時の伊賀は「惣国一揆」という自治組織が強く、前年の「天正伊賀の乱」で信長が徹底的に攻撃。同盟を結んでいた家康がやすやすと通過できる場所ではなかった。
家康一行は堺から南山城(京都)を経て、伊賀と接する現在の滋賀県南部の甲賀へ。一夜を明かしたとされるのが小川城だ。一行をかくまった城主の多羅尾氏はのちに豊臣秀吉により改易となるが、江戸時代には旗本に取り立てられている。

伊賀越えのルートは諸説あるが、明王寺もそのひとつ。家康から四代の位牌があり、伊賀越えの新たな拠点として近年注目を集めている。伊賀と甲賀、二つの忍びの里の境にある明王寺。伊賀越えは「甲賀越え」だったのかもしれない。

「本能寺の変」と「伊賀越え」の12年前、1570(元亀元)年6月に織田・徳川勢と浅井・朝倉勢が激突した姉川は、北近江・長浜を流れる。信長を裏切った浅井長政への報復戦で、徳川勢は存在感を示した。
徳川家康の転機の地となった近江各地を訪ねて、彼が見たであろう風景を探してみたい。

明王寺
明王寺は811(弘仁2)年、円瑞の開基と伝わる。最澄作という本尊・不動明王を中心に四つの明王像が配置されている。庭園が美しい忍びの里の寺
姉川古戦場
浅井・朝倉軍1万8000と織田・徳川 軍2万8000の戦いの舞台、姉川古戦場。死者は約2500人に上り、血原、血川橋の地名が当時の惨状を伝える

安土城跡
近江八幡市安土町下豊浦/8時30分~16時(季節により変動)/無休/700円
TEL.0748-46-4234(安土駅観光案内所)

御斎峠
甲賀市信楽町多羅尾
TEL.0748-82-2345(信楽町観光協会)

小川城跡
甲賀市信楽町小川字和田
TEL.0748-82-2345(信楽町観光協会)

明王寺
甲賀市甲南町磯尾1972
TEL.0748-86-2572


<問い合わせ>
びわこビジターズビューロー
TEL.077-511-1530

(出典:「旅行読売」2023年8月号)

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Writer

旅行読売出版社 メディアプロモーション部 さん

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