【美しき天守へ】城歩きが楽しくなる 天守の見方 小和田哲男
徳川時代に造られた姫路城天守
おわだ・てつお [歴史学者]
1944年、静岡生まれ。研究分野は日本中世史、特に戦国時代史。NHK大河ドラマ『どうする家康』の時代考証を務める。静岡大学名誉教授。日本城郭協会理事長。著書は『戦国武将の実力 111人の通信簿』『人生を豊かにしたい人のための日本の城』『地図でめぐる日本の城』ほか多数。
(撮影/今井一詞)
城歩きが楽しくなる天守の分類法
城の象徴というか、城のある町のシンボルといってもよいのが天守である。普通、天守閣と呼び慣らわされているが、そのように呼ばれるようになったのは幕末からで、正しくは天守と呼んだ。もっとも、最初の天守とされる織田信長の築いた安土(あづち)城の天守は「天主」の字が当てられている。どの城にも天守があったわけではない。信長および秀吉の時代から盛んに築かれるようになった。
では、城に天守が築かれたのはどうしてなのだろうか。この点について、江戸時代の兵学者は「天守の十徳(じっとく)」と表現しているが、次の通りである。
❶ 城内を見る
❷ 城外を見る
❸ 遠方を見る
❹ 城内武者配り自由※
❺ 城内の気を見る※
❻ 守備下知自由※
❼ 寄手の左右を見る※
❽ 飛物掛か かり自由※
❾ 非常時変化※
❿ 城の飾り
このように、軍事的に見れば展望台であり、司令塔でもあるということになる。しかし、実はそれだけではなかった。❿の飾りとあるように、権威を見せつけるシンボルとしての役割もあった。豪壮な天守を築くことによって敵を圧倒し、領民を帰服させる効果もあったのである。
さて、その天守であるが、近代建築のビルなどと違って、同じ外観のものがない。築城者が意図的にオリジナルな天守を築こうとしていた証拠といってよい。
まず、外観の色である。よく、「白い城」と「黒い城」といういい方をする。白漆喰塗籠(しろしっくいぬりごめ)の「白い城」と、黒壁あるいは黒板張の「黒い城」とに分かれる。一般的には、「黒い城」が豊臣秀吉好みで、「白い城」が徳川家康好みといわれる。秀吉および秀吉家臣が築いた城は、たしかに「黒い城」が多い。それは、秀吉系の城に金箔瓦(きんぱくがわら)が葺(ふ)かれ、壁が白だと金箔が映えないからといわれてきた。もちろん、そうした面もあるが、秀吉の時代と家康の時代の年代差が関係したという説もある。防火の意識や技術の進歩という観点である。天守を見るとき、「白い城」か、「黒い城」かに注目して歩くと面白いのではなかろうか。
ところで、天守を分類するとき、望楼型天守と層塔型天守に分けるという考え方がある。望楼型天守というのは、1階または2階建ての入母屋造(いりもやづくり)の建物の屋根の上に望楼を載せたものである。比較的早い段階の天守はほとんどこの望楼型天守である。
それに対し、層塔型天守と呼ばれる天守は、1階から最上階まで、上の階を下の階より規則的に逓減(ていげん)させて順番に積み上げていく形式である。この型だと、望楼型よりも早く築くことができることと、より巨大な天守ができるということで、関ヶ原合戦後に築かれた天守はほとんど層塔型天守となる。
そして、もう一つ、天守の分類法がある。天守の構成で、附属する建築物によって次の四つに分類され、これも、実際に天守を見るときに知っておくと楽しめる。
四つに分類されるまず1番は①独立式という呼び方をしている。附属建築物がなく、天守だけが単独で建つ形式である。シンプルで建てやすい。
次に2番は②複合式という呼び方をしている。四つに分類される中では、この複合式が最も多く見られる。天守に付櫓(つけやづら)や小天守が接続される形式である。付櫓あるいは小天守を通らないと天守本体に進めない形となる。
3番目が③連結式と呼ばれる形式で、これは、天守と小天守を渡櫓(わたりやぐら)で接続したつくりで、②複合式と同じように、小天守を経由しないと大天守には入れない構造であった。
最後の4番目が④連立式と呼ばれるもので、大天守と2基以上の小天守または隅櫓(すみやぐら)をロの字状に渡櫓で接続したもので、それだけ天守そのものが大規模になるというわけである。
ここでは、同じ天守の名で呼ばれていてもいくつかの分類法があることを紹介した。こうした分類法を知って天守を見ていくと楽しみも倍加するのではなかろうか。
文/小和田哲男
※天守の十徳
❹ 敵が攻めてきた時、どこに城兵を配置するかを
指示できる。
❺ 城兵の気力の強弱を把握する。
❻ 守りの際に自由に命令できる。
❼ 敵の侵攻を見渡せる。
❽ 弱点と思われる部分に鉄砲などを配備できる。
❾ 非常時に変化を知れる。
(出典:旅行読売2023年11月号)
(Web掲載:2023年11月12日)