【私の初めてのひとり旅】石井正則さん 白馬村嶺方峠(1)

いしい・まさのり[俳優]
1973 年、神奈川県生まれ。お笑いコンビ「アリto キリギリス」として94 年にデビュー。現在は俳優やタレントとして映画、テレビ、舞台などで幅広く活躍する。趣味は多彩で自転車は12台を乗り分け、自転車活用推進研究会から「7代目自転車名人」に選ばれた。カメラの腕前もプロ級で今年3月に写真集『13(サーティーン) ハンセン病療養所からの言葉 』(トランスビュー)を出版。
相棒の自転車で絶景の嶺方峠へ、トンネルを抜けて見た景色は
よくよく考えてみると、これまで本当の意味での「ひとり旅」をほとんどしたことがないのかもしれない。僕はそう思いました。旅自体は好きですが、たいていは誰かと一緒、もしくは写真を撮るために一人で出かけることが多かったのです。でも、その「写真旅」は「ひとり旅」とは少し違う気がします。写真を撮るという明確な「目的」がありすぎるからかもしれない。それがあると、どうしても自由気ままに漂う感じが薄れてしまうんです。
そんな僕が、唯一「ひとり旅らしい旅」をしたのは、10年ほど前、自転車で長野県白馬村の嶺方(みねかた)峠を目指したときのことです。その日は何の前触れもなく、ただ「峠を越えたい」というシンプルな思いが湧き上がり、すぐに東京を出発しました。旅の相棒は、16インチのタイヤを持つフォールディングバイク(折り畳み自転車)「ブロンプトン」。必要最低限の装備をバッグに詰め込んで、東京駅まで走り、新幹線に飛び乗りました。
長野駅に到着し、自転車を広げてゆっくりと走り出します。16インチのタイヤは、本当に小さくて、スローな旅を強調してくれます。時間がゆっくりと流れているような感覚。目指す嶺方峠は、絶景の峠としてサイクリストの間で有名です。その絶景を急に見たくなったのでした。
舞台のセットが切り替わるみたいに変わる空の色
天気が良すぎる。それがこの日の誤算でした。強い日差しの下、田舎道をひたすら進む。日を遮るものは何もなく、ただ青空と舗装された道路だけが続いています。削られるように体力を消耗し、峠に差し掛かる頃には、さすがにバテてきたな、と感じ始めました。勾配が急になり、ペダルを回すのがどんどん重く感じられてきます。「もう自転車を降りて、押して歩くしかないかもしれないな」と思い始めたその時です。
突然、空の色が変わり始めました。舞台のセットが切り替わるみたいに雲があっという間に現れ、太陽を隠し始めたのです。空気が一気に変わり、風が山の上から吹き降りてきました。それまで灼(や)けるような日差しに晒(さら)されていた僕の体が、まるで別の場所に移されたかのように感じます。すぐに気温はぐっと下がり、汗が引いていきました。「山の天気は気まぐれ」と言いますが、山自体が気分屋の「演出家」のようで、僕は「新しいシーンが始まった」という感覚になりました。
話/石井正則 聞き手/山脇幸二
【私の初めてのひとり旅 石井正則さん 白馬村嶺方峠(2)へ続く(3/7公開)
(出典:「旅行読売」2024年12月号)
(Web掲載:2025年3月6日)