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ボスニア・ヘルツェゴビナへの旅(3)モスタルの「トルコの家」

場所
> モスタル
ボスニア・ヘルツェゴビナへの旅(3)モスタルの「トルコの家」

「トルコの家」の窓際には、トルコ人住民の古写真が飾られていた

モスタルの古い橋(スターリ・モスト)約150メートル北には、「スターリ・モスト」の絶好の写真撮影スポットとなっているイスラム教モスク「コスキ・メフメット・パシナ・ジャミーヤ」の尖塔が立つ。

そのさらに約300㍍北には、オスマン・トルコ帝国時代の支配層だったトルコ人の大地主が住んでいたと伝わる「トルコの家」があった。

「トルコの家」は、高い壁に囲まれていた。ボシュニャク人のガイドさんによれば、「住んでいたトルコ人家族の女性たちの姿が周囲からのぞかれないため」だったという。

家に入ると、噴水のある中庭があった。階段をのぼっていくと、ネレトヴァ川が見渡せる広い部屋があった。川の上にせりだすような構造になっているらしい。窓際には2枚のモノクロ写真が飾られていた。1枚はトルコ人住民の古写真、もう1枚を見ると、川の上にせり出した部屋が2つ写っている。部屋の1つは河原らしき地面に立てられた2本の長細い柱で支えられている。川の上から美しい眺望を見渡したいという思いがひしひしと伝わってくる。これが、今いる「トルコの家」の古写真か、近隣の似た構造の建物の古写真か確信はもてなかった。しかし、窓から川を見渡すと、今いる部屋が川に向かって相当せりだしているのは明らか。河原に立てられた柱で支えられているに違いないと想像した。

窓の外に広がる川の眺望

「トルコの家」の窓からはネレトヴァ川の流れが眺められる
「トルコの家」の窓からはネレトヴァ川の流れが眺められる

オスマン・トルコ帝国の前身となる武装勢力がアナトリア半島西北部に勃興したのは13世紀末のこと。ボスニア・ヘルツェゴビナはもともと欧州西方のカトリック教会勢力と東方の正教会勢力の境界にあたっていた。

オスマン・トルコ帝国は、紆余曲折はありながらも、アナトリア半島からみて海峡の対岸にある欧州のバルカン半島に勢力を拡大していった。そして15世紀後半には、ボスニア・ヘルツェゴビナ全域がオスマン・トルコ帝国の支配下に入った。この結果、住民の一部がイスラム教に改宗、帝国のほかの地域からもイスラム教徒が移住した。

ボスニア・ヘルツェゴビナのなかで、ヘルツェゴビナは南部を占め、モスタルはそのヘルツェゴビナの中心都市となっている。モスタルのシンボル的存在「スターリ・モスト」は、新たな支配者となったオスマン・トルコ帝国が、もともとあった橋を架け替える形で、当時オスマン・トルコ帝国が有していた建築技術を駆使して壮麗な橋梁を建設した。紛争中の1993年に破壊されたが、2004年に再建された際には、トルコ共和国からの技術や資金の支援があったという。

モスタルの街を散策していると、「スターリ・モスト」のミニチュア版ともいうべき橋が目に入った。とても小さな橋だったが、橋の両端から中央に向かって上り坂になっているところが「スターリ・モスト」にそっくりだった。この橋もオスマン・トルコ帝国の建築技術によって架けられたのだろう。

モスタルの街で見つけた「スターリ・モスト」のミニチュア版ともいうべき橋
モスタルの街で見つけた「スターリ・モスト」のミニチュア版ともいうべき橋

Writer

藤原善晴 さん

月刊「旅行読売」編集部に2019年12月まで勤務。現在読売新聞東京本社文化部。瀬戸内海が見晴らせる広島県安芸津町風早(現・東広島市)生まれ。レトロブームということもあり、最近は「昭和」という言葉に敏感に反応。また、故郷が「令和」の典拠となった万葉集ゆかりの地であるため、福岡県太宰府市、奈良県、富山県高岡市、鳥取県など各地の「万葉集」ゆかりのニュースにも目を光らせている。