ボスニア・ヘルツェゴビナへの旅(1)モスタルの世界遺産「古い橋」
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モスク「コスキ・メフメット・パシナ・ジャミーヤ」の尖塔から見た「スターリ・モスト」
欧州南東部バルカン半島のボスニア・ヘルツェゴビナの歴史は複雑だ。支配者が次々に変わり、様々な民族、文化、宗教が入り交じる。だが、それゆえに、ボスニア・ヘルツェゴビナには多種多様な文化遺産がある。
同国南部モスタルにあるのが、近年多くの観光客が訪れるようになった世界遺産「スターリ・モスト」(古い橋)。その近くでは、オスマン・トルコ帝国時代のイスラム文化の影響が残る。同国には、カトリック信者のクロアチア人が多い地域や、セルビア正教信者のセルビア人が多い地域もある。そうした様々な地域を旅し、それぞれの独特な文化遺産や街並みを観光した。
エメラルドグリーンのネレトヴァ川にかかる橋「スターリ・モスト」
美しいエメラルドグリーンの水をたたえたネレトヴァ川にかかる世界遺産「スターリ・モスト」(古い橋)が見たくて、まずモスタルへ行った。市内の案内を頼んだガイドさんはイスラム教徒のボシュニャク人。
「橋が一番美しく見える場所へ行きましょう」と言って、イスラム教モスク「コスキ・メフメット・パシナ・ジャミーヤ」に連れて行ってくれた。
ワクワクしながら、尖塔(ミナレット)内の狭い階段をのぼり、小さな展望スペースに出た。眼前には美しいネレトヴァ川が流れる。スターリ・モストはアーチ型で、橋の両端から中央部に向かってだんだん高くなる独特の構造だ。こんな構図に出会うことはめったにない。夢中でシャッターを切った。
ガイドさんは、「スターリ・モストの近くには、昔からいろんな伝統工芸に携わる人たちがいました。だから、ありとあらゆる種類の土産品が手に入りますよ」と教えてくれた。
「いくつかの建物の壁に注目してください」と言うガイドさんが指さす方向を見てみる。ガイドさんは、「薄紫色や薄い緑色の壁があるでしょう。ああいった建物では、新しいデザインなどに挑戦している工芸作家の工房や店舗がある場合が多いんです」と説明してくれた。
モスクを出て「スターリ・モスト」に向かう。アーチ形の橋の中央部から川の水面まで約24㍍だ。橋のたもとから中央部に向かって歩きながら、何世紀もの間この橋を行き来した膨大な人々について想像を巡らした。
ボスニア・ヘルツェゴビナは、1992年~95年の紛争を経て旧ユーゴスラビアから独立した。モスタルの「スターリ・モスト」は、歴史をずっとさかのぼりオスマン・トルコ帝国支配下だった16世紀に建設された。
紛争中の1993年に破壊されたが、2004年に再建。翌05年に世界遺産に登録され、多民族・多文化社会の和解と共生の象徴となった。
切手に見るボスニア・ヘルツェゴビナの複雑な歴史
筆者が「ボスニア・ヘルツェゴビナ」に関心を寄せたのは半世紀前の小学生の頃。百枚セットの外国切手を小遣いで買ったら、世界地図に見当たらない「ボスニア・ヘルツェゴビナ」の古めかしい切手が交じっていた。切手には、オーストリア・ハンガリー帝国最後の皇帝で、敬(けい)虔(けん)なカトリック信者だったカール1世(在位1916年~18年)の肖像が印刷されていた。
ボスニア・ヘルツェゴビナのある欧州のバルカン半島では、古くから様々な民族・宗教が入り交じり、近隣の大国が勢力を伸ばしてきたり、独立国家ができたり消滅したりが続いてきた。
ボスニア・ヘルツェゴビナは、何世紀も続いたオスマン・トルコ帝国の支配下から1878年にオーストリア・ハンガリー帝国の支配下に移った。そして、1908年には同帝国に併合された。筆者が手にしたのはオーストリア・ハンガリー帝国に併合されていた時期の「ボスニア・ヘルツェゴビナ」で発行された切手だったのだ。
そんな事情から、イスラム教徒のボシュニャク人、セルビア正教信者のセルビア人、カトリック信者のクロアチア人が入り交じって住むこの地域の歴史、紛争には関心があった。
ある意味でこの地域の「トルコ文化」の影響のシンボルともいえる「スターリ・モスト」がたどった運命にも強い関心を持ち、一度見に行きたいと願っていたのだ。
(出典:「旅行読売」2020年3月号)