さまざまな思いが重なって……「鉄印帳」誕生物語
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目の前の光景が信じられなかった。球磨(くま)川にかかる第四橋梁が流され、濁流の中に橋脚が横倒しになっている。線路はひしゃげ、折れ曲がった橋げたが岸辺に打ち上げられていた。昨年7月4日、九州南部を襲った豪雨の爪痕を目の当たりにして、くま川鉄道社長の永江友二は立ち尽くしていた。
「日本で最も豊かな隠れ里」といわれる熊本県南部の人吉球磨地方を走るローカル線にとって、国の登録有形文化財に登録された第四橋梁はシンボルであり、誇りでもあった。長さ322メートルの橋梁が流されただけではない。5車両全て水没し、「万事休すか」という思いが頭をかすめた。しかし、立ち止まっているわけにはいかない。乗客の8割を占める通学の足の確保、被害状況の把握、安全確認……。為すべきことは山ほどあった。
最悪の状況の中で、鉄印帳の一斉販売は7月10日に迫っていた。第三セクター鉄道等協議会(以下三セク協)からは「無理はしないでください」といわれていたが、鉄印帳を提案し、加盟40社の共同事業にと呼びかけたのは、ほかならぬ自分である。土壇場になって抜けるわけにはいかない。迷いを振り切って、「仲間と一緒に始めさせてください」と返答した。「三セク鉄道はどこも苦しい。それでも頑張っている姿を見てもらいたい。こういう時だからこそ、前に進まなくては、という気持ちもありました」と永江は言う。
鉄印帳誕生の物語は2年前に遡る。ある日、妻が御朱印帳を買ってきた。「流行ると、みんな欲しがるのよね」と娘が笑った時、ひらめいた。「御朱印帳のように全国の駅を回ってもらえば、旅の思い出になる」。その時、「鉄印帳」という言葉が浮かんでいた。永江は美容師でもある。ウィークデーは社長業、休日は自分の美容室で髪をカットしている。「二足の草鞋」は柔軟な発想の源泉。古民家リノベーションやイベントなど数多くの街おこしに関わり、5年前にくま川鉄道の経営を託された。アイデアマン、チャレンジャーなのである。
当時の三セク協会長の出田(いでた)貴康(前肥薩おれんじ鉄道社長)は、永江から相談を受けた時、「面白い」と思ったという。三セク鉄道は旧国鉄やJRなどから切り離された赤字路線を引き継いだが、過疎化が進み、経営は厳しい。全国のローカル線の廃止は戦後400以上に上り、生き残るには観光客を増やすしかない。加盟社の足並みがそろえば、新しい道が開けるかもしれない、と彼はひそかに期待していた。7月、東京で総会が開かれた。すべての議事が終了し、出田は「くま川鉄道さんからご提案があります」と切り出した。いきなりの指名に驚いたが、永江はその場で全国の仲間たちに熱い思いを語った。
鉄道は地域のシンボル
「私たちの夢を形にしてほしい」。旅行読売出版社メディアプロモーション部長の伊藤健一は出田から話を聞いた時、ある光景を思い浮かべていた。東日本大震災で甚大な被害を受けた岩手県の三陸鉄道の運行再開を、地元の人たちは涙を流して見守っていた。沿線住民が鉄道に寄せる思いを知り、「この企画は何が何でも実現させたい」と奮い立った。
伊藤は「旅は人生を豊かにする」と信じ、26年間旅行雑誌の制作にかかわってきた。最近は「お金がないから、旅行に行かない」という若者が増え、「旅への憧れ」という価値観が失われつつあると感じている。ローカル鉄道の旅はふれあいの旅になる。鉄印帳の可能性に賭けてみようと心に決めた。
しかし、40社は規模も違えば、文化も違う。総論賛成でも、各論に踏み込むと様々な意見が飛び交い、なかなかまとまらない。伊藤はイメージを固めてもらうために真っ先に鉄印帳の見本を制作した。それをベースに意見を聞き、少しずつ修正する。担当者とは直接電話で話すように心がけた。丁寧に合意を取り付け、6月13日に全国一斉に発売することが決まった。初回は5000部を用意し、各社への割り当ては110部。「そんなに売れない」という声も上がったが、「残ったら私のところで買い取ります」と伊藤は言い切った。
思いが形になった鉄印帳
最後のハードルは、やはりコロナ禍だった。発売日は最初の緊急事態宣言と重なり延期。解除後の6月23日、都内で記者会見が開かれた。三セク協の当時副会長(現会長)、三陸鉄道社長の中村一郎は7月10日に発売することを説明し、「鉄道に乗ってもらうきっかけになってくれれば。沿線の魅力を楽しんでほしい」と語った。
被災対策に追われる中で、発売日を迎えた永江は不安を抑えられなかった。くま川鉄道は現地で購入できないため、特別にインターネット販売を認められたものの、申し込みはあるのだろうか。だめなら、イベントで少しずつでも売っていこう。そんなことを社員と話していたが、杞憂に終わった。発売開始から10分もたたないうちに完売したのである。全国の5000部も1か月で完売した。鉄印帳の発行は3万部を超え、読売旅行の鉄印帳ツアーは「鉄旅オブザイヤー2020」のグランプリを受賞した。
くま川鉄道は国の支援で復旧が決まり、11 月には一部区間で運転が再開されることになっている。しかし、ローカル鉄道の未来は厳しい。永江は言う。
「仲間の結束も強まった。この絆は私たちの宝になります」
〈敬省略〉
(出典「旅行読売」2021年8月号)
(ウェブ掲載2021年10月16日)