聖徳太子1400年のゆかりの地へ
観音正寺の聖徳太子像(滋賀県近江八幡市)。凛々しい顔と観音菩薩のような佇まいが近江での太子信仰を物語る。
約1400年前、その類まれなる才能で、女性天皇を支えた天才皇子がいた。 大陸の制度や技術をわが国に取り入れ、仏教による国の安寧をめざした聖徳太子。 その足跡とゆかりの地をめぐる。
「十七条憲法」や「冠位十二階」を制定し、その後の国の礎を築いた聖徳太子。622年に太子が亡くなってから、今年は1400回忌。来年で1400年だ。
574年に誕生したとされる聖徳太子。『日本書紀』には586年の記述で、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后の4人の子の1人、厩戸皇子(うまやどのみこ)として登場する。その他「豊耳聡聖徳(とよとみみしょうとく)」「豊聡耳法大王(とよとみみののりのおおきみ)」などの名前も記されている。
当時、大陸から伝わったばかりの仏教の受容をめぐり、豪族の蘇我氏と物部氏が対立していた。587年、両者は武力衝突する。太子の大伯父の蘇我馬子は豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ/後の推古天皇)を奉じ、物部守屋が擁立した穴穂部皇子(あなほべのみこ)を殺害。太子ら血縁関係にある皇族を味方につけ、物部守屋を河内国で破る。馬子は飛鳥寺を建立し、隋にならって仏教を国の根幹に据える。その後、馬子は対立した崇峻(すしゅん)天皇を暗殺。推古天皇を擁立し、太子を摂政にした政治体制を作り上げる。初の女性天皇と伝えられている推古天皇は、太子の叔母だ。
以後、中国大陸や朝鮮半島の制度や思想を積極的に取り入れた聖徳太子。607年の第2回遣隋使では小野妹子を派遣。第3回では「日出処の天子」で知られる国書を持参させ、614年の第5回まで続いた。
渡来人の知識や技術を受け入れ、仏教寺院の建立に力を注いだ聖徳太子。近畿各地にはゆかりの地が点在している。太子の死後、その存在は伝説とともに語られ、「聖徳太子信仰」として地域に根付き、今日まで続いている。人間・聖徳太子と、伝説の聖徳太子。両方を感じながら、ゆかり地を歩いてみるのも面白い。
聖徳太子年表
574年(敏達3)厩戸皇子(聖徳太子)誕生。
587年(用明2)蘇我馬子の物部守屋追討軍に加わり。戦勝を祈願する。
588年(崇峻元)蘇我馬子による法興寺(飛鳥寺)建設開始。
592年(崇峻5)推古天皇、豊浦宮で即位。
593年(崇峻6)推古天皇が聖徳太子を皇太子とし、摂政を命じる。四天王寺創建。
595年(推古3)高句麗の僧・彗滋が来日。太子、仏法の師とする。
596年(推古4)伊予温泉に行く。
598年(推古6)膳大娘を妃とする。
600年(推古8)第1回遣隋使。
601年(推古9)太子、斑鳩に宮を建てる。
603年(推古11)推古天皇、小墾田宮に遷る。太子、秦河勝に仏像を授ける。冠位十二階制定。広隆寺創建。
604年(推古12)十七条憲法を起草する。
605年(推古13)斑鳩宮に遷る。
606年(推古14)勝鬘経を天皇に講説。
607年(推古15)小野妹子を隋に派遣(第2回遣隋使)。法隆寺(斑鳩寺)創建。
608年(推古16)小野妹子帰国。
609年(推古17)勝鬘経義疏を著す。
611年(推古19)勝鬘経義疏を完成させる。
613年(推古21)維摩経義疏を完成させる。片岡で餓者に出会い、衣服と食料を与える。
614年(推古22)法華経義疏を著す。犬上御田鍬を隋に派遣(第5回遣隋使)。
615年(推古23)法華経義疏を完成させる。
619年(推古27)天皇から薬を賜り、病人に施す。
621年(推古29)太子の母、穴穂部間人皇后薨去。
622年(推古30)斑鳩宮にて薨去。磯長陵に葬られる。太子の妃・膳大刀自薨去。
623年(推古31)法隆寺金堂釈迦三尊像完成。
626年(推古34)蘇我馬子が亡くなる。
628年(推古3)推古天皇崩御。
(出典「旅行読売」2021年11月号)
(ウェブ掲載 2021年10月27日)