【文化財の宿】お伊勢参りの旧街道沿いに立つ 麻吉旅館(1)
路面の水たまりに明かりが映る雨の夕暮れ時も風情がある
旧街道の古市遊郭跡に唯一残る旅館
旅人が往来する道に宿ができるのは、古今繰り返されてきた人の営みの一部だ。時代とともに道も移る。運よく残った建物だけが時を刻み続け、その周囲で消え去ったものに思いを致す時、感じるのは無常だろうか。
江戸時代、「伊勢にいきたい伊勢路がみたい、せめて一生に一度でも」と道中伊勢音頭に唄われ、庶民の間で流行した伊勢参り。神宮の外宮(げくう)から内宮(ないくう)へ向かう参宮街道は参拝者増加とともに栄え、中間地点の古市(ふるいち)は一説には江戸・吉原、京都・島原などとともに五大遊郭(ゆうかく)といわれ、最盛期は妓楼70軒、遊女1000人を数えたという。
旅人の中には、参拝後ここで〝精進(しょうじん)落とし〟をして帰路につく者もいた。明治になって旅館に転業する店もあったが、時代は移り、にぎわいは消えた。今は唯一、麻吉(あさきち)旅館だけが残る。
参宮街道が通るのは「間(あい)の山」と呼ばれる丘陵地帯で、外宮の先で坂を上ると平地が続き、やがて坂を下って内宮に至る。ゆるく蛇行する細い道に旧街道らしさはあるものの、民家や雑木林が点在するのどかな地方道に、妓楼の大店(おおだな)や芝居小屋が並ぶ昔日を想像するのは難しい。
聚遠楼から望む朝熊山の風景
中之町バス停前の路地を入ると、そこだけ時間が止まっていて、古市の町の記憶をとどめるように麻吉旅館が立っている。
旅館は不思議な形だ。坂道に階段が延び、その両側に木造家屋がそそり立って橋で結ばれている。板張りの壁の下の土台の一部が石垣ということもあり、城のようでもある。京都・清水寺と同じ懸造り(かけづくり)と呼ばれる建築様式で、高低差のある崖や傾斜地で用いられると、宿の人から聞いた。3階建ての本館の上に2階建ての聚遠楼(じゅえんろう)が続く5層構造。国の登録有形文化財の本館、聚遠楼、土蔵など5棟が連なっている。
なぜこの場所にこの造りなのか、という疑問への答えは、上階の部屋に入ればわかる。窓の外、五十鈴ヶ丘(いすずがおか)団地の先になだらかな朝熊山(あさまやま)の緑が望める。道路や団地が開発される前は、美しい里山の風景が広がっていたはずだ。
「海抜約35メートルのこの地は伊勢の中で小高い場所で、眺めがよかったのでしょう」と女将の上田聖子さん。続けて「祖母が生きていた昭和40年代まではまだにぎやかでした。繁忙期は大いそがし。炊事場のかまどが現役で、魚を焼くだけの人、皿を洗うだけの人、蔵番、働いている人もたくさんいました」と思い出を語ってくれた。芸妓(げいこ)は20年ほど前に引退した幸太郎(こうたろう)さんを最後に、今はもういないという。
文/福﨑圭介 写真/宮川 透
住所:三重県伊勢市中之町109-3
交通:参宮線・近鉄山田線伊勢市駅からバス11分、中之町下車すぐ/伊勢道伊勢西ICから1.3㌔
料金:1泊2食1万3800円~、1泊朝食9000円~、素泊まり8000円~(2人1室利用。空いていれば、ひとり泊可。要問い合わせ)※掲載時の料金。最新のデータはホームページなどで確認してください。
部屋:トイレ付き10畳和室など(全6室、バス付きも4室あり)
TEL:0596-22-4101
(出典:「旅行読売」2022年5月号)
(WEB掲載:2022年7月22日)