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旅へ。 (第27回 広島と原爆ドーム)

場所
> 広島市
旅へ。 (第27回 広島と原爆ドーム)

原爆ドーム保存の陰に 平和祈る子どもたちの声

大正初め、広島市の中心部に建てられた産業奨励館は中央に楕円形ドームが載ったネオバロック様式の洋館で、川面に影が揺れる白亜の高楼は近代都市のシンボルだった。1945(昭和20)年8月6日、原爆は市街地を焼き尽くし、一面の焦土にポツンと残った廃墟は、「原爆ドーム」と呼ばれるようになった。「悪夢がよみがえる」と瓦礫(がれき)の解体を望む人も少なくなかったが、長い議論の末、子どもたちの声が市民の心を動かしたのである。

原爆の子の像は対岸に立っている。折り紙の鶴を捧げ持つ少女像のモデルは12歳の佐々木禎子さん。2歳で被爆し、小学6年の時に白血病を発症した。千羽鶴が病気を治してくれると信じて薬の包み紙で小さな鶴を折り続けたが、55年10月、「お茶漬けがほしい」と二口食べた後、「お父ちゃん、お母ちゃん、みんなありがとう」と言い残し、息を引き取ったという。同級生が始めた募金活動は全国に広がり、3年後の子どもの日、少女像の除幕式が行われた。

16歳の楮山ヒロ子さんは「ある日私は」というタイトルの日記を残していた。59年3月の中学卒業から始まり、8月6日には「あの痛々しい産業奨励館だけがいつまでも、恐るべき原爆を後世に訴えてくれるだろうか」と書かれている。彼女も白血病を発症し、60年4月、入院からわずか6日後に亡くなった。同級生たちが禎子さんの少女像の前で日記を朗読したことから、「原爆ドームを残すべき」という声が高まり、敗戦から21年後、市議会が保存決議を採択したのである。

平和記念公園に修学旅行の子どもたちが戻ってきた

終戦後77年の夏、広島平和記念公園には修学旅行の子どもたちの姿が戻っていた。彼らのまなざしは真剣そのものだ。原爆の非道を伝える資料館では、同じ年頃の被害者の遺品や写真を目の当たりにし、核の恐ろしさ、戦争の残酷さを心に刻みつけたことだろう。歴史に学ばず、力を過信し、同じ過ちを繰り返す。大人の愚かさに失望した子がいたかもしれない。

原爆ドームに未来を託したヒロ子さんは、親友に胸の内を明かしていた。

――大人はバカだ。どうして戦争なんかしたんじゃろう。どうして私をこんなに苦しめるんじゃろう。

 


(出典:「旅行読売」2022年9月号)

(WEB掲載:2022年8月30日)


Writer

三沢明彦 さん

元「旅行読売」編集長

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