【私の初めてのひとり旅】角田光代さん タイ・マレーシア(2)
かくた みつよ (小説家)
1967年、神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。1990年、『幸福な遊戯』で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。『まどろむ夜のUFO』で野間文芸新人賞、『空中庭園』で婦人公論文芸賞、『対岸の彼女』で直木賞、『ロック母』で川端康成文学賞、『八日目の蝉』で中央公論文芸賞、『源氏物語』訳で読売文学賞を受賞。そのほか著書多数。(プロフィール写真Ⓒ垂見健吾)
「その後の私のひとり旅は、このはじめての旅が基礎になっている」
【私の初めてのひとり旅】角田光代さん タイ・マレーシア(1)より続く
サトゥーンの港から町までバイクタクシーに乗ったのだが、このバイクの運転手のことはよく覚えている。ハートヤイいきのバス乗り場に着くと、バスのチケットと飲みものを買って渡してくれ、バス乗り場のベンチで一緒に座ってバスを待ってくれた。暑いし、ひとりで待つからもういってくださいと身振りでいってもしずかに首を振って笑う。ジュースを買ってきて渡そうとしても、いらないと首を振る。小一時間も待っただろうか、ようやくやってきたバスに私を乗せて、手を振ってバイクで去っていった。じりじりした日射し、日なたと日陰のコントラスト、むせかえるような木々の緑、こんなふうに、まったく見返りもなく他人に時間を差し出せる人がいることへの驚きと戸惑い、すべてありありと覚えている。こういう人になりたいと本気で思ったからだ。この優雅さを身につけたいと思ったからだ。
その後の私のひとり旅は、このはじめての旅が基礎になっている。旅は自分の足で進むものだけれど、同時に、見知らぬ無数の人たちのてのひらがそっと運んでくれるものでもあると、こころの深いところで知ったから、こんなビビりでも、その後も旅を続けることができている。
お茶屋のおじいさん、ナイトマーケットの若者たち、列車のカップル、白髪のおじいさん、大学生の女の子、―― 訪れた名所名跡や印象深い光景ではなく、名前も知らない人たちをえんえんと挙げ、もう一度会いたい、会ってさようならを言いたい、でももうきっと二度と会えないと、25歳の私は旅の終わりにノートに書いた。旅でしか得ることのできない一期一会のせつなさも、私はこのとき知ったのだ。人生が果てしなく旅に似ていると気づくのは、もっとずっと年齢を重ねてからのことだ。
文/角田光代