【伊東潤の 英雄たちを旅する】第4回 吉田松陰と萩
碁盤目状に区画されかつての町筋が残る萩の城下町
プロフィール
伊東 潤(いとう じゅん)
1960年、神奈川県横浜市生まれ。歴史作家。2013年、『国を蹴った男』で吉川英治文学新人賞、『巨鯨の海』で山田風太郎賞を受賞。過去5回、直木賞候補となる。近著に、敗れ去った日本史の英雄たち25人の「敗因」に焦点を当て歴史の真相に迫るエッセー『敗者烈伝』(実業之日本社)などがある。
西洋の文物への関心が人一倍強かった松陰
歴史上、名の知られた英雄や偉人は多いが、比較的有名にもかかわらず、「結局、この人は何をしたの?」という疑問が湧くことがある。その一人が吉田松陰(しょういん)ではないだろうか。吉田松陰は1830(天保元)年、山口県の萩市に生まれた。実家が長州藩毛利家の下級藩士の家だったので、幼少の頃から叔父の開いた松下村塾(しょうかそんじゅく)で学ぶことができた。これが松陰の人間形成には大きかった。その後、九州や江戸に遊学して多くの賢者や知者の影響を受け、松陰は攘夷(じょうい)論者になっていく。だが頭から西洋文明を否定するのではなく、持ち前の学究心から、西洋の文物への関心は人一倍強かった。
1953(嘉永6)年、ペリーが来航すると、松陰は黒船を遠望し、西洋に渡航したくなる。そして翌年、ペリーが再来航すると、従者の金子重輔(しげのすけ<重之輔>)とともに伊豆の下田まで行き、小舟で黒船に漕(こ)ぎ寄せ、「乗せてくれ」と頼み込むが断られる。国禁を破ろうとしたことは事実なので、松陰は下田奉行所に自首した。
その後、長州に送還された松陰は野山獄(のやまごく)で囚人として過ごすが、ほどなくして出獄を許され、叔父から松下村塾を引き継ぐことになる。
この時に久坂玄瑞(くさかげんずい)や高杉晋作ら後に活躍する弟子たちが集まり、松下村塾は梁山泊(りょうざんぱく)のような様相を呈する。だが1859(安政6)年、松陰は安政の大獄に巻き込まれ、江戸に送られて刑場の露と消える。享年は29。「死生は度外に置くべし」を座右の銘としていた松陰らしい堂々たる最期だった。
しかし松陰の思想は脈々と息づき、高杉らによって倒幕の思想的バックボーンとなっていく。またその著作は日本の将来を見通しており、松陰の評価は、死後にいっそう高まっていくことになる。そんな松陰を育んだのが城下町萩だ。
萩に行ったら、まず松陰を祭神とする松陰神社に行ってほしい。美しい境内を散策するだけで松陰の息吹に触れた気がするだろう。
ここには松下村塾と松陰の実家の杉家旧宅が保存されている。しかもこの二つの建物は移築ではない。松陰神社自体が松陰ゆかりの場所を包摂するように建てられているのだ。
またここには、松陰の生涯を蝋人形(ろうにんぎょう)で再現した吉田松陰歴史館や、松陰愛用の品々を展示した宝物殿至誠館もある。
続いて松陰が生まれた場所「吉田松陰誕生地」にも行ってほしい。ここは団子岩と呼ばれる高台にあり、萩市内を一望の下に見渡せる。生家自体はないが、松陰と金子重輔の銅像がある。松陰の墓も隣接しているので、ぜひ手を合わせ、松陰の遺徳を偲(しの)んでほしい。
そのほかにも、松陰も通った藩校の明倫館(萩・明倫学舎)、萩城跡指月(はぎじょうあとしづき)公園、野山獄跡、高杉晋作誕生地、久坂玄瑞誕生地、伊藤博文旧宅など、萩には名所旧跡が目白押しだ。
萩の街を歩いていると、書物を抱えた松陰が角から突然現れるような気がする。それだけ萩は、在りし日の佇(たたず)まいを残した美しい城下町だ。
文/伊東潤
英雄メモ🖋
吉田 松陰(よしだ しょういん)[1830-1859]
幕末の思想家、尊王論者。長州藩士。山鹿流兵学師範を務め、江戸に出て佐久間象山に師事。海外密航を企てたが失敗して投獄され、出獄後は幽閉された萩の実家のそばで松下村塾を主宰し、高杉晋作や伊藤博文ら、後に明治維新の原動力となる志士たちを育成した。1858(安政5)年、幕府が日米修好通商条約を結んだことに激怒して倒幕論を主張し、安政の大獄に連座して翌年、江戸の伝馬町で刑死した。
[松陰神社への交通]
山陰線東萩駅からタクシー5 分、または徒歩20分
[観光の問い合わせ]
TEL:0838-25-1750(萩市観光協会)
※記載内容はすべて掲載時のデータです。
(出典:「旅行読売」2023年5月号)
(Web掲載:2024年5月26日)