3.5万キロ歩いた伊能忠敬 全国地図作りは55歳から始まった【駅から歩こう1万歩】
伊能図は縮尺3万6000分の1の大図(計214枚)、21万6000分の1の中図(8枚)、43万2000分の1の小図(3枚)など複数の種類がある。写真は大図「上総・安房」(国立国会図書館デジタルコレクション)
各地を旅した偉人として、平安後期の歌僧・西行(さいぎょう)、俳聖・松尾芭蕉、江戸後期の旅行家・菅江真澄、歌人・若山牧水らの名が浮かぶ。江戸末期に全国地図作りに情熱を注いだ伊能忠敬(いのうただたか)もその一人だが、理系の分野で活躍した異色の存在ともいえる。しかも、地図作りのための測量の旅を始めたのは、50歳を過ぎてから。昔の人が健脚だったとはいえ、今でいえば、まさに「中高年の星」。そして「歩きの達人」。そんな忠敬の来歴をたどってみよう
伊能家の婿養子として佐原へ
実測によるわが国で初めての全国地図「大日本沿海與地(よち)全図」(「伊能図」)を作成したことで知られる忠敬は、上総国山辺郡小関村(現・千葉県九十九里町)に生まれた。17歳の時に下総国香取郡佐原村(現・同香取市)の伊能家に婿養子として入る。
伊能家は名主を務めるこの地の名家で、酒造りなどを営み、米穀取引、舟運にも携わっていた。
「伊能家には代々収集してきた数多くの蔵書があり、知的好奇心が強かった忠敬を刺激したと思われます。特に忠敬は暦学や算術に関心を持ちました」と伊能忠敬記念館学芸員の石井秀和さんは話す。
忠敬は独学する一方で家業でも商才を現し、伊能家の収入を3倍に引き上げている。そして、49歳で長男の景敬(かげたか)に家督を継がせ、翌年の1795年、江戸に出た。深川(現・江東区)に居を構え、江戸幕府天文方の高橋至時(よしとき)に師事。至時から5年間、西洋天文学、暦学、測量技術などを学んだ。私財を費やして天文観測機器を自宅に整え、星の観察も欠かさなかったという。
計10回にも及んだ測量の旅
本格的な測量の旅は1800年の第1次測量で、幕府の許可を得て、私費を投げうち東北・北海道南部を訪れた。それからはほぼ毎年、測量の旅に出かけ、東北東部・西部、関東、東海、北陸、畿内、中国、四国、九州と沿岸部を中心に全国各地を歩いた。測量の旅から帰ると深川の自宅で地図の製作に励んだ。
忠敬の最後の測量は第10次、1816年の江戸だった。その2年後の18年、転居した八丁堀の自宅で地図の完成をみることかなわず没する。73歳であった。その後、弟子たちが地図の作成を引き継ぎ、忠敬没後3年の21年、「大日本沿海與地全図」が完成する。
知命(50歳)の年を迎えてから人生の大きな転換を図った忠敬。彼を突き動かしたものは一体何だったのか?
「当時、地球が丸いことは分かっておりましたが、その大きさは分かっていませんでした。忠敬は実測により、緯度1度分の大きさを求め、実際の大きさを証明したかったのだと考えられます」と石井さんは解説する。
17年にわたる測量の旅で歩いた道のりは約3.5万キロとほぼ地球1周分になり、測った距離は約1.1万キロともいわれている。その歩数は5000万歩、あるいは作家・井上ひさしの長編歴史小説では4000万歩と諸説あるが、正確には分かっていない。
佐原には旧宅が今も残る。測量家となる前の忠敬は家業を繫栄させながら、この地で何を感じ何を思っていたのだろうか? そこで、測量家・忠敬の礎を築いた商家町・佐原を歩いてみた(こちらの記事を参照)。
文/荒井浩幸
伊能忠敬記念館
忠敬の生涯を年代順に紹介。伊能図や星の高度を測定した象限儀(しょうげんぎ)をはじめとする測量に使用した機器類(写真)などを展示し、間近に見ることができる。同館が所蔵する「伊能忠敬関係資料」2345点は国宝に指定されている。
■9時~16時30分(閉館)/月曜休(祝日・ゴールデンウィーク、あやめ祭り期間を除く)、年末年始休/500円/成田線佐原駅から徒歩10分/TEL0478-54-1118
伊能忠敬旧宅
忠敬が約33年間暮らした旧宅は、正門、店舗、炊事場、書院(母屋)、引き戸式の土蔵からなり、店舗と正門は忠敬が婿養子に入る前の建築だ。書院は忠敬が設計したと伝わる。商いを行った店舗は土蔵を造り替えた建物。国指定史跡。
■9時~16時30分(閉館)/年末年始休/無料/成田線佐原駅から徒歩10分/TEL0478-54-1118(伊能忠敬記念館)
※記載内容はすべて掲載時のデータです。
(出典:「旅行読売」2024年6月号)
(WEB掲載:2024年7月3日)