【車窓に春風 お花見列車】車窓で出逢う🌸「はぐれ桜」の歓び

目に焼き付けることしかできない、一期一会の桜が山にはある。
偶然の出逢いにうっすら期待してなんとなく見ているときに僥倖(ぎょうこう)として降ってくるものなのだ。
桜は、電車から見るのがいい
―桜は電車。田畑に谷川の入りくみたる山際に立ちたるを、鉄橋より眺むるは言ふべきにあらず。
これは、私が思いつきで書いた令和の枕草子である(古語には自信がないので大目に見てください)。
すなわち、桜は、電車から見るのがいい。それも、名所ではなく、山の斜面にところどころ挿し込んだかのように、ポツポツとまばらに見えるものがよい。
そんなことに気づいたのはここ数年のことで、それまでは、やはり桜といえばたくさん派手に咲いている姿を愛(め)でるものと思っていた。車窓から眺められるもので言えば、中央・総武線の市ヶ谷駅あたりのお濠に咲くものや、東北線大河原駅あたりの一目千本桜などが好きだ。あれはあれで、よいものだ。田舎の小駅のホームにざわざわと咲き誇っているのもとてもよい。こういうものは、誰かと来て愛でるべきだ。
ところが、あるとき私は里山にぽつんと咲く桜の良さを知ってしまった。きちんと記録していないので場所は曖昧だけど、最初の機会は確か舞鶴線に乗っていたときだったと思う。春に、ある仕事の予定があって京都の舞鶴に向かっているとき、何気なく山あいの車窓を眺めていると、遠くの斜面の鈍い緑色のモサモサのなかにぽつんぽつんと薄桃色の繭玉(まゆだま)のような桜の木が見えた。群生はしていない。まばらに気まぐれに、視界の数か所に生え、一つ一つが満開になっている。
私は桜を見に来たわけではない。狙わずにいたら勝手に目に入ってきた。
桜側もきっとそうだ。桜並木や観光地の桜は人に見られることを分かっているけれど、人家や道から遠い山林の間に偶然生まれ落ちた桜は、誰かに見られるなんて思っていないはずだ。
狙っていないもの同士の出逢いと、彩度の低い緑の中にぽつりと灯(とも)っている姿。この相乗効果でそれはとてもうれしいものに感じられた。人が容易に近くに行くことができない、観賞される桜からは一人はぐれて孤高に咲く桜。私はこういう桜を「はぐれ桜」と呼ぶことにした。
山裾の林にぽつんと咲く桜
それから私は、はぐれ桜との偶然の出逢いを心待ちにするようになった。この時期にたまたま電車に乗るときは、山あいに桜が見えたらその場所をメモしておくようになった。
印象的だったはぐれ桜は、福島県に多い。東北線で福島から仙台に向かうと、県境が近づく藤田駅あたりで少しずつ進行方向左側から山が近づいてきて、藤田から貝田までの間で電車は裾野を走る。車窓は遠くに向かって少しずつ標高が上がっている。そこには桃も咲くし、桜も咲く。傾いた山裾に咲く桜や、やや遠くに見える林の中にぽつんと咲く桜を、電車から一人で見る。あ、また見つけた、と思うと、すぐに車窓から通りすぎてしまう。これがいい。
東北新幹線沿線にもこんなところがある。新青森に向かっているとき、山の斜面にとてもいいはぐれ桜たちが一瞬見えたので、スマホのマップであわてて現在位置を確かめたら福島県の本宮(もとみや)市あたりだった。そのあたりの、どこか。一瞬で通りすぎるから正確な場所は分からない。写真にすら撮れない。
目に焼き付けることしかできない、一期一会の桜が山にはある。こんなはぐれ桜は一人で静かに見るのがいい。タイミングも場所も、狙って行ったところで外れてしまう場合もあるし、桜を見つけようと車窓を凝視するのも何か違う。偶然の出逢いにうっすら期待してなんとなく見ているときに僥倖として降ってくるものなのだ。
私はここでたまたま福島県のはぐれ桜を挙げたけれど、本当はそれぞれがそれぞれのはぐれ桜を見つけてほしいな
文/能町みね子(文筆家)
のうまち・みねこ
1979年北海道生まれ、茨城県育ち。『正直申し上げて』『 ショッピン・イン・アオモリ』『 結婚の奴』『 私以外みんな不潔』など著書多数。
※記載内容は掲載時のデータです。
(出典:旅行読売2025年4月号)
(Web掲載:2025年3月28日)