【天下取りの城へ】コラム 豊臣兄弟を感じる城の旅(城郭考古学者 千田嘉博)
豊臣秀長が100万石の居城として築いた大和郡山城
豊臣秀吉の弟、秀長を主人公にした大河ドラマ「豊臣兄弟!」が、2026年1月にスタートする。秀吉と秀長は、全国の城を攻め、各地に城を築いた。ゆかりの城を訪ねる旅は、戦国の世を駆け抜けた2人を体感する旅になる。豊臣兄弟を感じる城の旅へ皆さんを誘(いざな)いたい。
始まりは名古屋・中村
豊臣兄弟は、現在の名古屋市中村に生まれた。豊臣兄弟を感じる旅はこの地から始めよう。ここには秀吉を祭った豊国(とよくに)神社があり「豊公(ほうこう)生之地」の石碑も立つ。すぐ隣には、加藤清正の出生地とされる妙行寺(みょうぎょうじ)もある。前田利家、福島正則らもその周辺の出身だった。
江戸時代には豊臣兄弟の出生地は「木下屋敷」、清正の出生地は「加藤屋敷」として名所になった。2026年には中村公園の「豊臣ミュージアム」内に「豊臣兄弟!名古屋中村大河ドラマ館」が開館する。

名古屋市の中村公園内にできた豊臣ミュージアム
秀吉・秀長、激闘の小谷城
滋賀県長浜市の小谷城は浅井(あざい)長政の居城である。秀吉と秀長は、この城を攻略するために織田信長が築かせた虎御前山城(とらごぜやまじょう)の最前線の木下陣で、浅井軍と対峙(たいじ)した。
豊臣兄弟は最終的に小谷城の斜面を駆け登って城を落としたが、現地で眺めると、ここを登ったとは信じられない崖である。そしてこの戦いで城内から助け出された浅井三姉妹の長女、茶々が後年の淀殿(よどどの)となり、秀吉の側妻として豊臣の運命を決める女性となった。

豊臣兄弟が命がけで攻め落とした小谷城大広間の石垣
西国平定と姫路城・竹田城
秀吉は、信長から安芸(あき<広島>)の毛利氏、吉備(きび<岡山>)の宇喜多(うきた)氏と戦う西国平定の任務を与えられた。その拠点に定めたのが兵庫県の姫路城だった。姫路城はその後に池田輝政が大改修し、豊臣兄弟時代の姿は失われた。しかし石垣は各所に残っており、兄弟が当時の最新の城として姫路城を整えたことがわかる。
現在の大天守の地下に、豊臣兄弟時代の天主(天守)があったことも判明している。これは外観3重・内部4階で、黒い下見板張りの構造だったと推定されている。現在の大天守の3階あたりから眺める風景が、秀吉・秀長が眺めた高さに相当する。兄弟の気分で景色を眺めてほしい。
秀長は但馬(たじま)平定を担当し、朝来(あさご)市の竹田城の城代を務めた。この城は生野(いくの)銀山を押さえた要地で、豊臣兄弟の重要な財源となった。

秀吉と秀長が西国平定の拠点にした姫路城

秀長が城代を務めた竹田城
天主を巡る兄弟の個性
天下統一を成し遂げた豊臣兄弟は、私の城として大坂城と大和郡山城(郡山城)を整備し、公の城として京都の妙顕寺(みょうけんじ)城(現二条城の東)、聚楽第(じゅらくてい)、伏見城を築いた。興味深いのは妙顕寺城、聚楽第、滋賀県の大津城に「天主」と呼ばれた女性がいたことである。
歴史学者・福田千鶴氏の研究によって、妙顕寺城には織田信長の娘が、聚楽第には前田利家の娘が、大津城には京極氏の娘が、それぞれ天主様として暮らしたと考えられる。彼女たちは秀吉が特に愛した側妻だった。淀殿に淀城を贈ったのをはじめ、秀吉は愛した女性に城の天主をプレゼントした。何ともビッグな贈り物ではないか。城郭考古学者として、ちょっとうらやましい。この頃の天主は安土城のように内部は御殿になっていたとわかる。
一方の秀長は居城にした大和郡山城に天主を建てたが、秀吉のように女性を住まわせた記録はない。秀長は、天主について兄を見習わなかった。大和郡山城は石垣がよく残り、秀長時代を偲(しの)べる。遠くには秀長が大和支配の実権を奪おうとした興福寺や東大寺、春日大社が見える。大和郡山を中心にした国づくりを目指した秀長の思いが実感できる。この大和郡山城が秀長の終焉(しゅうえん)の地である。豊臣兄弟を感じる城の旅を締めくくるのは、この城がふさわしい。
文・写真 千田嘉博(城郭考古学者、名古屋市立大学 教授)

写真/畠中和久
せんだ・よしひろ
1963年、愛知県生まれ。名古屋市立大学教授。大阪大学博士(文学)。奈良大学卒業後、名古屋市見晴台考古資料館学芸員。奈良大学教授を経て同大学学長。国内外の城の調査・研究を行い、テレビでも活躍している。著書に『城郭考古学の冒険』(幻冬舎)、『歴史を読み解く城歩き』(朝日新聞出版)など。
※記載内容はすべて掲載時のデータです。
(出典:旅行読売2026年2月号)
(Web掲載:2026年2月15日)


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