【伊東潤の 英雄たちを旅する】第33回 藤原の秀衡と平泉
奥州藤原氏初代の清衡が1124年に建立した中尊寺金色堂(国宝)。内外に金箔が押された仏堂は極楽浄土を表現している。4代の遺体が須弥壇内に安置されている(写真/中尊寺許可済)

プロフィール
伊東 潤(いとう じゅん)
1960年、神奈川県横浜市生まれ。歴史作家。2013年、『国を蹴った男』で吉川英治文学新人賞、『巨鯨の海』で山田風太郎賞を受賞。過去5回、直木賞候補となる。近著に、敗れ去った日本史の英雄たち25人の「敗因」に焦点を当て歴史の真相に迫るエッセー『敗者烈伝』(実業之日本社)などがある。
中尊寺創建当時の姿を今に伝える金色堂
平泉(ひらいずみ)という極楽浄土を再現したような舞台装置を造ったことで、奥州藤原氏4代は平和を希求した一族とされている。しかし源義家の力を借りた初代清衡(きよひら)が、武力によって奥州の覇者の座を勝ち取ったことを忘れてはならない。清衡は平和を願ったわけではなく、勝者としての状態を永続させたいと思っただけだ。
それは2代基衡(もとひら)や3代秀衡も同じで、平泉という舞台装置によって自らの権力と財力の強大さを見せつけ、自分たちの地位を確固たるものにしたかったのだ。
かくして約100年にわたって奥州を支配した藤原氏だが、名君として知られる秀衡の代になり、暗雲が垂れ込めてくる。兄の源頼朝(みなもとのよりとも)と決裂した義経(よしつね)が逃げ込んできたのだ。
源平合戦では中立を守っていた秀衡(ひでひら)だが、平家を滅ぼした頼朝がその鋭鋒を奥州に向けてきたことで、戦うべきか従うべきかで苦慮する。その時、義経から「たとえ従っても、頼朝は許さない」と聞いた秀衡は、徹底抗戦を決意する。ところがその矢先、病に倒れて無念の死を遂げる。

藤原秀衡の画像(毛越寺所蔵)
一方、秀衡の跡を継いだ4代泰衡(やすひら)は頼朝に従うことにし、義経を殺してその首を差し出した。だが頼朝は許さず、大軍を率いて平泉を蹂躙(じゅうりん)し、泰衡を殺して奥州藤原氏を滅亡に追い込んだ。かくして永遠の仏国土(浄土)平泉は長い眠りに就いた。
平泉には素晴らしい寺院や史跡が多くある。最も有名なのは「皆金色(かいこんじき)」と謳(うた)われた中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)うだろう。中尊寺創建当時の姿を今に伝える金色堂は、奥州藤原氏の栄華の象徴というだけでなく、文化財としての価値にも瞠目(どうもく)すべきものがある。とくに内陣の白く光る螺鈿(らでん)細工、透かし彫りの金具、漆(うるし)の蒔絵(まきえ)など、当時の技術力の高さを物語っている。

中尊寺金色堂を保護する覆堂
2代基衡が建立した毛越(もうつう)寺は、中尊寺を凌ぐほどの規模と華麗さで見る者を魅了する。とくに浄土庭園の美しさは格別で、四季折々、様々な表情を見せてくれる。

毛越寺の浄土庭園は、特別史跡、特別名勝(写真/毛越寺)
無量光院(むりょうこういん)跡は、3代秀衡が宇治の平等院を模して造らせたものだ。建築物は失われているものの、建物の中心線が背後にそびえる金鶏山(きんけいさん)の山頂部と結ばれており、山に沈む夕日を背景にしたその構図は、浄土庭園の最高傑作と言われている。
無量光院跡の西にある平泉文化遺産センターは、平泉の歴史や文化遺産について紹介する施設で、遺跡発掘時に出土した遺物を数多く展示している。毛越寺と中尊寺の中間にあるので、休憩場所としても最適だ。

宇治の平等院鳳凰堂を模して造られた無量光院跡(写真/ピクスタ)
文化遺産センターと中尊寺の間にある高館義経堂(たかだちぎけいどう)にも立ち寄りたい。ここは義経終焉(しゅうえん)の地で、江戸時代に仙台藩によって建立され、義経の像が安置されている。かつてこの地を訪れた松尾芭蕉は、「夏草や兵(つわもの)どもの夢の跡」という有名な句を詠んだ。

源義経の居館跡にある高館義経堂(写真/ピクスタ)

高館より眺める北上川と束稲(たばしね)山(写真/ピクスタ)
奥州藤原氏の価値ある文化も、頼朝率いる鎌倉武士たちの馬蹄(ばてい)で踏みにじられ、歴史から消えていった。いかに高度な文化も、武力の前では無力だったのだ。平泉と奥州藤原氏は、われわれに平和を守ることの難しさと大切さを教えてくれている。
文/伊東 潤
英雄メモ🖋
藤原秀衡(ふじわらのひでひら)[1122-87]
平安時代末期の武将。奥州藤原氏第3代当主。父は基衡。源氏へのけん制を期待した朝廷と平氏から鎮守府将軍、次いで陸奥守に任じられ、源平に次ぐ第3勢力として権威を誇った。貴族の娘と婚姻して中央政界とつながり、特産の金や馬による財力を背景に、奥州藤原氏の最盛期を築いた。館を置いた平泉は独自の仏教文化、京風文化が栄え、平安京に次ぐ人口を擁したとされる。無量光院を建立。平氏滅亡後、源頼朝に追われる義経を匿(かくま)い、その保護と一族の結束を遺言して死去。子の泰衡は義経を自害に追いやり、頼朝に恭順の意を示したが受け入れられず、戦に敗れて奥州藤原氏100年の歴史は幕を閉じた。
[中尊寺へのアクセス]
東北線平泉駅から巡回バス(土・日曜、祝日運行、冬季休)10分、中尊寺下車すぐ
[観光の問い合わせ]
※記載内容はすべて掲載時のデータです。
(出典:「旅行読売」2025年10月号)
(Web掲載:2026年6月21日)


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