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【伊東潤の 英雄たちを旅する】第32回 福澤諭吉と中津

場所
> 中津市
【伊東潤の 英雄たちを旅する】第32回 福澤諭吉と中津

福澤諭吉(ふくざわゆきち)旧居。福澤諭吉が青年期まで過ごした旧居は、国指定の史跡。隣接する記念館には『学問のすすめ』初版本のほか、諭吉の書、写真、手紙などの関連資料が展示されている

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プロフィール
伊東 潤(いとう じゅん)

1960年、神奈川県横浜市生まれ。歴史作家。2013年、『国を蹴った男』で吉川英治文学新人賞、『巨鯨の海』で山田風太郎賞を受賞。過去5回、直木賞候補となる。近著に、敗れ去った日本史の英雄たち25人の「敗因」に焦点を当て歴史の真相に迫るエッセー『敗者烈伝』(実業之日本社)などがある。

在野のご意見番の役割を果たし続けた諭吉

福澤諭吉といえば慶應義塾大学の創設者として有名だが、彼の経歴や思想については、さほど知られていない。

諭吉の父の百助(ひゃくすけ)は豊前(ぶぜん)中津藩の大坂蔵屋敷の下級藩士だった。百助は儒学者でもあり、才能豊かな人だったらしいが、それを世に問うことなく亡くなった。そのため諭吉は、家柄や血統だけを重視する武家社会を目の敵(かたき)にしていく。

当初は漢学と儒学を学んでいた諭吉だが、19歳の頃から蘭学を学び、長崎に行ってオランダ語を猛勉強した。翌年には大坂の適塾(てきじゅく)に入塾し、2年後には塾頭になる。全国の秀才が集まる適塾で頭角を現した諭吉は中津藩でも注目され、江戸出府(しゅっぷ)を命じられる。江戸では佐久間象山(しょうざん)に学び、蘭語から英語に切り替えたことが奏功し、渡米の機会を得る。さらに2年後には渡欧の機会も得て、国内有数の外国通となっていった。

そこで幕末の動乱となるわけだが、諭吉は政局とは距離を置いて再び渡米。3度にわたる海外渡航で得た知見を明治の世に役立てていく。維新後、諭吉は教育こそ国家の根幹を成すと信じ、慶應義塾などの学校を創設、若者の教育と啓蒙活動に力を注いでいった。

政府への出仕の誘いを断って在野を貫いた諭吉は、自由民権運動や国会開設を唱え、まさに在野のご意見番の役割を果たし続けた。諭吉の思想は西洋の文明をいち早く吸収し、列強の侵攻を阻止し、日本は東洋諸国を守らねばならないというもので、アジア諸国の改革を強く支持した。

その著作は膨大だが、『西洋事情』『学問のすすめ』『文明論の概略』『瘠我慢(やせがまん)の説』は今日でも読まれている。外国通なので外国かぶれという誤解を受けやすい諭吉だが、実際は日本のためを思った記述が多く、在野にあっても明治維新を支えた一人だったと分かる。

日本の近代化に多大な貢献をした諭吉だが、大分県の中津には、その業績を顕彰した史跡が多数ある。まず中津駅前の「福澤立像」の前で記念写真を撮りたい。1万円紙幣に採用されたことを記念して造られたこの立像は、不敵な面(つら)構えで腕組みをしており、いかにも諭吉らしい。

駅から北西に向かうと城下町に入っていく。ここには寺町があり、明蓮(みょうれん)寺には福澤家先祖代々の墓がある( 本人の墓は東京にある)。

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中津駅前の福澤諭吉像

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「福澤家先祖代々の墓」(市の史跡)がある明蓮寺

寺町を抜けると、国指定史跡の福澤諭吉旧居・福澤記念館に出る。ここでは当時の福澤家の暮らしぶりを垣間見られると同時に、資料や展示物により諭吉の事績を余すところなく知ることができる。

中津城にも足を延ばしたい。この城は黒田如水(じょすい)が築城したもので、天守の存在が定かでないため、模擬天守が建てられた。ここでは、長らく城主を務めた奥平家の歴史資料が多数展示されている。

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秀吉配下の黒田孝高(如水)らが築いた中津城は、海水を引き込む水城。1964年に建てられた天守は奥平家歴史資料館になっている

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旧居・記念館の近くにあるカレー店「諭吉コルリ」の名は、諭吉がカレーをコルリと紹介したことに由来

中津に行き、諭吉が吸ったと同じ空気を吸い、その若き日の鋭気を感じてほしい。誰もが「坂の上の雲」を目指したあの時代に思いを馳(は)せることができるだろう。

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中津を代表する景勝地・耶馬渓(やばけい)。明治時代、売りに出ていた「競秀峰」の土地を、諭吉は私財で買い取り、故郷の自然景観を守った

文/伊東 潤

写真協力/中津耶馬渓観光協会、福澤諭吉旧居・福澤記念館

英雄メモ🖋

福澤諭吉(ふくざわゆきち)[1835-1901]
明治時代の思想家、教育者。慶應義塾大学の創設者。豊前(ぶぜん)国中津藩の下級武士の子として大坂に生まれ、中津に戻る。身分制による父の不遇や因習は封建制度への疑問を育んだ。長崎と大坂で蘭学を学び、1858年、江戸中津藩邸に蘭学塾を開いた。英学を独学し、60年、幕府使節団として咸臨(かんりん)丸で渡米。62年、ヨーロッパ諸国を歴訪した後、西洋文明の紹介書『西洋事情』を執筆した。明治維新後は人材育成と啓蒙活動に務め、塾を慶應義塾と名付けて多くの実業家を輩出。「天は人の上に人を造らず」に始まり、学問の重要性を説いた『学問のすすめ』はベストセラーとなった。


[福澤諭吉旧居・福澤記念館へのアクセス]
日豊線中津駅から徒歩15分、またはタクシー5 分

[観光の問い合わせ]
TEL:0979-64-6565(中津耶馬渓観光協会)

※記載内容はすべて掲載時のデータです。

(出典:「旅行読売」2025年9月号)
(Web掲載:2026年6月20日)


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