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【明治・大正・昭和 古地図さんぽ】第1回 大正時代の東京市中心部《実地踏測 東京市街全図/和楽路屋/1919年(大正8)発行》

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【明治・大正・昭和 古地図さんぽ】第1回 大正時代の東京市中心部《実地踏測 東京市街全図/和楽路屋/1919年(大正8)発行》

明治・大正・昭和の「古地図」をテーマにした新連載です。 その時代を映す地図の古い地名・地形を読み解き、当時にタイムスリップして誌上さんぽを楽しみます。 案内人は地図研究家の今尾恵介さんです。

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プロフィール

いまお・けいすけ
1959年、横浜市出身。エッセイスト、フリーライター。地図研究家、収集家。(一財)日本地図センター客員研究員、日本地図学会「地図と地名」専門部会主査などを務める。著書に『地図バカ』(中央公論新社)、『地図マニア 空想の旅』(集英社インターナショナル、第2回斎藤茂太賞受賞)、『地図と鉄道』(洋泉社、第43回交通図書賞受賞)、『地理院地図の深堀り』(PHP 研究所)ほか多数。

地図は刷り上がった時から「古地図」

地図は新品が刷り上がった時からすでに「古地図」である。最新だと銘打って直近の街の動向を盛り込んでも、書店に並ぶまでのタイミングで大きな店が出現し、新しい道路が開通すればもはや最新ではない。そんなわけで特に戦後の1960年代には発行年を記載しない市街地図が多数刊行された。いつまでも「最新」として書店に置いてもらう作戦である。しかしこれは後で困った。時代不明な地図の使用価値はないに等しい。

古地図は実用に適さないので捨てる人は珍しくないが、久しぶりに部屋の片付けで古い地図を見つけ、しばし想い出に浸ることはないだろうか。昔の名前で載っている母校や、廃止された鉄道路線やその駅、とっくの昔に消滅した会社や役所の名前などなど。古地図はその時代の街の情報を詰め込んだタイムカプセルのようなものである。明治・大正・昭和と代を重ねて作られてきたさまざまな古地図をこれから紹介していこうと思う。たとえば曽祖父が現役で働いていた街の空気を図からリアルに想像できれば、これはなかなかの悦楽ではないか。

江戸城が上にある伝統的な江戸図

今回の東京の市街地図は当たり前のように西が上になっている。まさに伝統的な江戸図の向きだ。徳川の「御城」が上にあって、町人たちが商いする場所を下に描く江戸の感覚を踏襲したものだろう。当時、江戸はそう遠い過去ではなく、維新の原動力となった「天保老人」の代表格たる渋沢栄一は79歳。さすがに実業家としては引退したものの、2年後にはワシントン軍縮会議に出席している。

会議そのものは第一次世界大戦の反省気運の表われだが、日本はこの遠い欧州の戦争で大きな利益を得て急速に近代化した。鉄筋コンクリートの建造物が急増し、汽車の走る線路には架線が張られ、電車が頻繁に走るように変貌していく。とはいえ東京市の面積は現23区のおよそ7分の1以下の15区で、図の翌年に行われた第1回国勢調査の人口は約217万人。当時の山手線(品川~新宿~池袋~田端)のルートは、すべて郡部であった(※)。

※現在の山手線は、田端~東京の東北線、東京~品川の東海道線を併せて環状運転を行っている。

水路が縦横に通じていた東京

図を一見して印象的なのが、縦横に穿(うが)たれた江戸以来の運河である。巨大な消費都市の象徴的存在であるが、その大半が姿を消した今とはまるで違う風景が広がっていた。東京にも「大阪八百八橋」に負けず劣らず橋は多く、呉服橋、鍛冶(かじ)橋、有楽橋、京橋、桜橋など電停の名前に採用された橋も目立つ。今はいずれも交差点名などにしか残っていない。図の右下に見える2本の行き止まりの堀はその名も東堀留川・西堀留川で河岸には蔵が立ち並び、商品の出入りでにぎわったそうだが、その後の関東大震災と太平洋戦争の後で瓦礫(がれき)の捨て場になってしまう。

赤い太線の東京市電は市内の旅客輸送の大半を担う交通機関で、1919年の路線延長は138キロに及び、1日あたりの乗客数も急増してこの年に108万人を数えた。関東大震災後の復興事業で大胆に統廃合される以前の、江戸の細かい町割りの多くも、歴史的な町名とともに継承されている。

堂々たる「とうきよう」駅は14(大正3)年12月の開業から4年半しか経っていないから、重厚な赤煉瓦(れんが)の欧風建築は、再建された現在よりまぶしく輝いていたに違いない。駅の下側に橋がないのは、京橋側がいわゆる「駅裏」で、呉服橋に近い鉄道院のビルヂングの左手は、汽車の折り返しで機関車を後ろから前に付け替えるための「機回し線」など裏方の施設が並んでいたからだ。

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現在の東京駅丸の内駅舎。第二次大戦時の空襲で3階を焼失し2階建てに改修されたが、2012年、3階建てに復原された(写真/ピクスタ)

後の八重洲(やえす)口が設置されるのは29(昭和4)年になってからであるが、その「八重洲」は現在のまさに丸の内側にあった。家康に仕えたヤン・ヨーステンの邸宅に由来する町名とされる。ところがこの八重洲町は帝都復興事業の町名地番整理で同年に「丸ノ内」に統合、いったん消滅してしまう。東京駅の裏口(計画当初はそう呼ばれた)は、少し前に復活した橋の名にちなんで八重洲橋・口と呼ばれたが、こちらも空襲後に瓦礫で外堀を埋め立てたことにより橋も消滅、出入口からも「橋」が外れていつしか八重洲口に。54(昭和29)年には東京駅の東側に位置する呉服橋・槇町の両町が合体し、町名は八重洲と命名された。四半世紀ぶり、反対側での復活である。地名の引越しは珍しい。

文/今尾恵介


※記載内容はすべて掲載時のデータです。

(出典:「旅行読売」2026年8月号)
(Web掲載:2026年7月21日)

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