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光秀の生涯にわたる本拠・坂本城から見た琵琶湖の景観 坂本城址

場所
> 大津市
光秀の生涯にわたる本拠・坂本城から見た琵琶湖の景観  坂本城址

琵琶湖畔に立つ坂本城址の石碑。実際に坂本城があった場所より南に位置するという


足利義昭と織田信長の両方の家臣「両属」となった明智光秀は、元亀元(1570)年12月に、近江(滋賀県)の宇佐山城主となった。かつて織田家臣団の森可成が守っていたこの城は、信長に敵対する浅井・朝倉両氏と、彼らに味方する比叡山ににらみを利かせる位置にあった。光秀は、織田家にとって目前の敵を監視するという、重要な役割を担っていたのだ。

翌年、信長は比叡山焼き討ちを敢行。光秀は主導的役割を果たしたことを高く評価され、琵琶湖畔に新たな本拠坂本城を築城することになる。宣教師ルイス・フロイスの記録によれば、坂本城は安土城に次ぐ規模を誇り、安土城より先に天守が築かれたという。

光秀の死後、坂本城は廃城となる。現在、坂本城址公園に石碑や光秀像があるのみだが、眼前に広がる琵琶湖の様子は、織田軍団のなかで台頭してゆく光秀が見た景色をほうふつとさせる。

文/安田清人

公園の南西約5㌔に残る宇佐山城跡の石垣。堅牢(けんろう)な造りから光秀の先進性がうかがえる
坂本城址公園から見た琵琶湖。坂本城には琵琶湖の水を引き入れた船着き場があったという

■坂本城とは

光秀は織田家臣団の中でもっとも早く居城の築城を許されたといわれている。信長が光秀を高く評価し、頼りにしていたことの証しだろう。坂本城が廃城となったのち、その資材は近くに築かれた大津城に転用された。そのため坂本城の実像は謎に包まれていたが、近年の発掘調査によって、琵琶湖の湖底から石垣が発見されるなど、徐々にその姿が明らかになってきている。

■問い合わせ
坂本城址公園 入園自由/TEL:077-578-6565(坂本観光案内所)/東海道線大津駅からバス20分、下阪本下車徒歩3分/湖西道路下阪本ICから4㌔

(出典 2020年臨時増刊「100名城さんぽ」)

(ウェブ掲載 2021年2月7日)

 



Writer

たびよみ編集部 さん

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