“もてなし”にあふれた日本旅館(1)
唐津城(左奥)を眺める洋々閣
風格のある唐津の老舗
見上げた先に佐賀県が誇る名城・唐津城の天守があり、松の並木が広がる国の特別名勝「虹の松原」の西端。何気ない住宅街に、そこだけ時間が止まっているかのように宿「洋々閣」はあった。
むくりの切妻屋根が印象的な木造2階建て。通りに面し格子の連なる様子は、どことなく昔の旅籠や京町家の趣を漂わせている。表札に宿名「洋々閣」とある筆は、後で書家・今井凌雪によるものと聞いた。黒澤明監督の作品「乱」などの題字を担当したことでも知られる巨匠である。
笑顔に心のひもを緩めて
玄関を入ると、打ち水された敷石が奥へと続き、その先には行燈に照らされた沓脱石と板間の小上がり。ケヤキの一枚板は経年変化の風合いが美しく、光沢ある木目に風格さえ感じる。土壁も優しい温かみを伝えている。外光から次第にほの暗さに目が慣れてくると、3㍍はあろう天井の高さにはっとした。かつて、客を乗せた人力車が乗り入れていた頃の造りのままだという。
連れがいれば「すごい玄関だね」と同意を誘いたいところだが、今回はひとり旅である。視線を天井から踏み込みへ移すと、仲居さんと目が合い「お疲れさまでございました」と声をかけてくれた。ごく自然で、「お帰りなさい」とさえ聞こえた。格式ある宿では得てして、くつろぎに来た客でも背筋を正し気を張らなくてはいけない雰囲気の所があるが、この一言と笑顔は早速、こちらの心のひもを緩めてくれた。
質の高いもてなしを守る
洋々閣の創業は1893(明治26)年。1983(昭和58)年から足掛け20年ほどをかけ、通常通りに営業しながら改修した姿を今日に留めている。
「ここは、昭和初期まであった北九州鉄道の終着、東唐津駅に近かったんです。炭鉱の町としてにぎわい、人の往来も旅館も多い場所でした」と語る5代目当主・大河内正康さん。宿名「洋々閣」は、当時の佐賀県出身の代議士、川原茂輔氏が命名した。
大河内さんは元銀行員で、32歳の時に家業へ戻り、43歳の時に後を継いだ。高齢化に伴い世代交代する宿は全国にみられ、それを節目に若い感性でリニューアルする宿は多い。ただ、大河内さんは違った。
「宿の規模を広げようといった野望はありません。洋々閣に泊まることで日本旅館の魅力を感じてもらたい。その思いで日々、質の高いもてなしを守り続けています。もうけは考えていませんよ」と気さくに話してくれるが、輝く瞳から一本筋の通った確固たる信念が伝わってくる。
昨年のことだが、唐津市で進めていたテイクアウト&デリバリー応援プロジェクト「唐津エール飯」に洋々閣も参加し、「口福弁当」を提供していた。和牛飯、ちらし寿司、煮穴子棒飯を盛り込んだ弁当で、定価2800円。「せめて4000円で」との原価を考えた板場の声はあったが、もうけではなく「日本料理のおいしさを知ってもらうこと」を大河内さんは優先したという。弁当を通じて、日本旅館らしいもてなしの一端を知ってもらうためだ。
大河内さんが言う“もてなし”とは単にソフト面に限らず、客が過ごす空間や食す料理、愛でる庭園などを含んでのこと。そのすべてを通じて“日本旅館”を感じてほしい思いがある。
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