道祖神の里へひとり旅
地元の人に救われ今も祀られている下タ村道祖神
114体の道祖神に迎えられ
かつて、旅は歩くことが基本だった。お伊勢詣りや富士講はもちろん、湯治客も荷を担いで歩いて温泉場へ向かった。
高崎の市街から北西へ約25㌔に広がっている倉渕地域は、草津温泉への湯客が行き来していた山里。街道は“草津みち”として親しまれ、第8代将軍・徳川吉宗が草津の湯を江戸へ運ばせた歴史もある。
旅人の安全を願い、旅人により病気や災いがもたらされないよう邪悪なものを防ぐ賽の神として道祖神が置かれた。時と共に数は増え、倉渕には現在77か所・114体ある。その多くは男女の仲睦まじい様子が彫られた双体道祖神だ。第3代将軍・家光の時代に造られた県下最古の道祖神も倉渕にある。
「それ以前から倉渕では道祖神信仰があったようです。特殊な形の石には神が宿るとする石信仰がそもそもの源流です」と話す倉渕公民館の塚越昇さん。以前は教育委員会で道祖神など文化財を担当していた。
道祖神の表情やしぐさは温かみがあり、見る者をほっこりした気分にしてくれる。静かな山里でそんな時間を過ごしたくて、ひとり倉渕を訪ねた。
道祖神ごとに表情はさまざま
倉渕公民館でもらった道祖神巡り「水沼コースマップ」を見ながら散策を開始。公民館の裏手、幅3㍍ほどの道が“草津みち”だ。田畑の形状に沿って道が延び、土蔵や念仏堂なども気になり歩調はおのずとゆっくりになる。
鍛冶屋道祖神は着物の帯に手を添えてほほ笑む双体道祖神で、民家裏手の山林にたたずんでいた。次に迎えてくれた七ツ石道祖神は、風化で表情の凹凸が浅いものの、ふっくらした輪郭は笑っているようだ。
その先には、庚申塔などと並んで中石津道祖神があった。1763年造と古いものの、男女が肩を組む様子が良く分かる。この頃は各地の築城に駆り出されていた石工らが帰郷し、造仏造塔を生業に道祖神も盛んに造られたという。
「最近は玄関先に、金婚式や国体出場記念などで道祖神を置く家もあります」と塚越さん。町内6か所の道祖神は、市指定文化財になっている。
胸が熱くなる道祖神の物語
烏川橋で対岸へ渡ると、5体の下タ村道祖神が茂みに並んで迎えてくれた。男女が手を取り合ったり、ほほを寄せ合ったり。みな表情は優しく、写真を撮らせてもらう前に手を合わせた。
「学校を造る時、建設予定地に点在していた道祖神を地元の人たちが移したんです。処分されかけた道祖神への温情、慕う気持ちからです」と塚越さん。胸が熱くなる話である。
怒りという意味で熱くなったのが、近くの上野天満宮で。昔から3体が鳥居横に並んでいたが、1体は1991年に盗まれたという。今は台座のみが残り、在りし日の姿を思い浮かべながら手を合わせた。
散策途中に温泉入浴も
相間・森道祖神のある水沼神社の手前を右へ入って1㌔ほど歩くと、相間川温泉ふれあい館がある。塩分と鉄分の豊富な湯で、天候などで黄褐色や赤褐色に変わる源泉を内湯や露天風呂で楽しめる。ふらり立ち寄り入浴するのもいいものだ。
旅人は道祖神に何を思っただろう
道を下りきった蓮華院のそばに下水沼道祖神があった。1919年造と114体の中で一番新しいが、それでも100年以上経っている。おとそを交わす楽しげな雰囲気で、長い纓を後ろに垂らす冠姿から平安貴族のように思われる。おとそは「お屠蘇」と書き、「邪を屠り生気を蘇らせる」ために飲むという説から、道祖神に彫られたのかもしれない。
たどってきた道祖神は一体一体が何かを語りかけている。石工はどんな思いで彫ったのだろう。旅人は何を感じたことだろう。想像を膨らませながら、コース最後の戸春名道祖神へ手を合わせた。