駅麺紀行 扇屋そば【亀嵩駅】
3枚の割子につゆとそば湯が付く割子そば。割子増量もできる。薄緑色の美しい割子は有田焼
そばの伝統を守り続ける奥出雲の名店
中国地方の奥出雲ののどかな景観と、3段スイッチバックで急峻(きゅうしゅん)な山を越えるダイナミックさを併せ持つ日本有数の秘境路線、木次(きすき)線。列車は島根の2大観光拠点、出雲市駅と松江駅のほぼ中間に位置する宍道(しんじ)駅から出発し、週末や観光シーズンともなればトロッコ列車「奥出雲おろち号」が運転して観光客でにぎわう人気路線でもある。そんな木次線の、3段スイッチバックが始まる手前の山あいに、鉄道ファンだけではなく全国のそば好きに愛される駅そば店がある。亀嵩(かめだけ)駅の扇屋そばだ。
店は、昭和初期の1934年の亀嵩駅開業時から現役を続ける味わい深い外観の駅舎の中にある。旧駅事務室のスペースが店舗となり、駅待合室は入店待ちの場所を兼ねている。駅員配置のない無人駅なので、いまや駅舎全体が店といえるかもしれない。ちなみにこの駅は、松本清張の小説『砂の器』に登場したことでも有名で、テレビドラマ化の際にロケも行われた。
扇屋で提供されるのは、出雲地方伝統の出雲そばだ。出雲そばと聞いてまず思い浮かぶのが、そばを器に小分けにして重ねる割子(わりご)そば。「割子のイメージが強い出雲そばですが、実はもう1つ代表的な食べ方があるんですよ」と説明してくれたのが、扇屋店主の杠(ゆずりは)哲也さん。「甘皮ごと挽いてちょっと黒ずんだそばを小さめの器(割子)に入れて、つゆと薬味をかけて食べるのが割子です。割子を3枚重ねるのは、昔この地方でお弁当的にそばを食べていたことが由来。そして、もう1つが釜揚げです。そばをそば湯ごと盛ったもので、好みの量のつゆを入れて食べます。むかし神在月(かみありづき=出雲地方の10月)の神事でそばの屋台が繁盛して、屋外でそばを締める水が少なかったことから、この食べ方が広まったようです」
予約で列車に届けてくれる、そば弁当も名物
もちろん、この2品を注文した。割子そばの割子は、杠さんこだわりの有田焼を使うのが特徴で、品のある薄緑色の器の中に出雲そばが映える。薬味のネギ、カツオ節、刻み海苔はあらかじめ載っているので、好みの量のつゆをさっとかけてひとすすり。コシのある食感で、かむほどにそばの豊かな香りが口いっぱいに広がる。
続いて釜揚げをいただく。湯気が立ち昇る器をのぞき込むと、とろみがかったそば湯の中に艶のある出雲そばが浮かび、割子と同じ薬味3種が載っている。こちらも好みの量のつゆをかけてそばをひとすすり。そば湯が合わさることで、普通の温そばよりも明らかに濃厚なそばの香りが鼻に抜けていく。
杠さんにそば作りのこだわりを聞いてみると、「実はあまりこだわっていないのがこだわりですね」と笑う。「とにかくお客さまにおいしいそばを食べてもらいたいので、その年に良くできたそば粉を使うようにしています。つまり年や時期によって変わります。懇意にしている製粉所に選定してもらうのですが、産地にこだわることなく、一生懸命作ってくれている農家さんの品物を使って、これに地元の天然水を合わせて、毎日手打ちで仕上げています」
扇屋の開業は約50年前にさかのぼる。国鉄時代の1971年、杠さんが亀嵩駅の業務委託を請け負ったのがきっかけで、その2年後からそば店を始めたという。「屋号の扇屋は、杠家が代々掲げてきたもので、そば店にそのまま付けました。現在もJR西日本との業務委託契約は続いており、店できっぷも買えますし、列車内で食べられるそば弁当も販売しています。亀嵩駅到着1時間前までに予約してもらえれば、列車にお届けしますよ」
出雲神話発祥の地といわれる奥出雲。「奥出雲おろち号」をはじめとする木次線の列車に乗って、扇屋のそばと奥出雲の空気を味わいながら旅してほしい。
文・写真/伊藤岳志