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【おうちで南極体験】南極観測の礎を築いた探検家・白瀬 矗(しらせ のぶ)<前編>

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【おうちで南極体験】南極観測の礎を築いた探検家・白瀬 矗(しらせ のぶ)<前編>

明治45年1月28日、南極・大和雪原にて(写真提供:白瀬南極探検隊記念館)


12月14日は「南極の日」。今から110年前の明治44(1911)年、ノルウェーの探検家、ロアール・アムンセンと4人の隊員たちが世界で初めて南極点に到達したことに由来します。当時、アムンセンはイギリス海軍大佐のロバート・スコットと、どちらが先に南極点に到達するかを競っていたことは広く知られています。実はこれと同じ時期に、日本の軍人で探検家の白瀬矗(しらせ のぶ)もまた、南極点を目指していたのです。今回は日本人として初めて南極に上陸した白瀬矗について、その人となりや功績を白瀬南極探検隊記念館で副主幹(学芸員)を務める石船清隆さんに伺いました。

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北極探検を志し、守り続けた5つの戒め

白瀬矗は秋田県由利郡金浦(このうら)村(現在のにかほ市金浦)にある浄蓮寺の長男として、文久元(1861)年6月13日に生まれました。幼少時代は腕白で、それにまつわるエピソードはたくさんあります。例えば、金浦は海が近く港もあり、漁師が浜に小さな魚を捨てていました。その小魚を狙ってやってきたキツネの尻尾を掴み、肩などを噛まれても離さなかったので最後は尻尾がちぎれてしまったそうで、その尻尾は10数年前までお寺に残っていました。ほかにも、海に潜って千石船の底を潜り抜ける遊びが流行っていた時には、300トンもある大きな船の底に潜ったものの抜け出られなくなって、溺れて死にかけたり、本堂に引っかった凧を取ろうとして落っこちたり……。お寺の長男なので、少しの期間修業に行ったことがあったのですが、そこで何百人対1人で喧嘩をしたという話もあるほどです。

こうした元気いっぱいといいますか、やんちゃだった白瀬少年に大きな影響を与えたのが、寺子屋の先生だった佐々木節斎です。節斎から北極の話を聞いて興味を持ち、極地探検に行きたいという気持ちが芽生え、探検家を志すようになりました。これが11歳の頃です。極地探検に行くにはどうしたらいいのかと節斎に聞くと、「5つの戒め」を授かりました。(1)酒を飲まない。(2)煙草を吸わない。(3)お茶を飲まない。(4)湯を飲まない。(5)寒中でも火にあたらない。この5つの戒めは、南極探検を終えてからも守り続け、生涯実行したそうです。

白瀬 矗(しらせ のぶ) (写真提供:白瀬南極探検隊記念館)
腕白だった白瀬少年がキツネの尻尾を引きちぎってしまう場面を描いた紙芝居(写真提供:白瀬南極探検隊記念館)

北極から南極へ。人跡至らぬ境を自ら闊歩したい


白瀬は子供の頃からずっと北極を目指していましたが、明治42(1909)年、アメリカのロバート・ピアリーが北極点踏破に成功したことを新聞で知り、目標を180度転換して南極行きを決意します。その頃、イギリスではアーネスト・シャクルトンやロバート・スコットも南極点踏破を目指していたので、彼らには負けたくないという思いもあったようです。当時の気持ちを自著『南極探検』でこう記しています。

「自分は前人未踏の境に行きたい。人が鋤や鎌で雑草を刈り揃えて坦々と研ぐ如くその跡を辿るのは大嫌いだ。蛇や熊が出ても未だ人跡到らぬ境を自ら闊歩したい。北極を断念して南極を志した。南極は誰も達していない」

ちなみに、この『南極探検』は100年以上前の本なのでなかなか実物を見るのは難しいですが、国立国会図書館のデジタルアーカイブで見ることができますので、興味がある方はぜひご覧ください。

南極探検は日本を背負って立つ世界的な事業に


当時の日本は日英同盟を結び、日清日露戦争にも勝利し、国際的なことへの関心や、外国人に一歩も引けをとらない活躍を期待する機運がありました。その一方で、日本は長い間鎖国をしていたこともあり、イギリス、スペイン、ポルトガル、オランダなどの国々からすると、日本の航海技術は低いだろうと見られていました。その評価に対して白瀬は、前述の著書で“幼稚な批判だ”と記しています。

そうした時代背景もあり、南極探検は日本を背負って立つ世界的な事業として捉えられるようになっていきました。白瀬にしてみれば、子供の頃からの目標である極地探検を実現させ、さらに日本の存在を世界に知らしめられる機会なので、大きなやりがいを感じていたことでしょう。人のやっていないことをしたい、ぜひともやらなければという気持ちだったのではないかと思います。

イギリスのシャクルトンやスコットには、国のバックアップがありました。白瀬も明治43(1910)年1月、第26回帝国議会に「南極探検ニ要スル経費下付請願」(10万円)を提出します。しかし国の支援は受けられませんでした。ではどうやって南極探検を実現したのでしょうか……。

前列左から2番目が白瀬 矗、3番目が大隈重信(写真提供:白瀬南極探検隊記念館)


白瀬の南極探検を支援したのが大隈重信です。白瀬が軍人として仙台にいた時に知り合った新聞社の社長、千頭清臣からの紹介で繋がったと資料に残っています。明治43(1910)年、彼が会長を務める南極探検後援会が発足。各地での演説会や寄付金集めに尽力しました。大隈の演説は魅力的で、彼が登壇したことで多くの寄付が集まったそうです。新聞各社も白瀬の南極探検を記事で取り上げ、老若男女問わず多くの国民の関心を集めることになりました。隊員の募集から南極探検計画の公表まで、ひとつひとつの詳細を知ることができたことで、国民も南極探検が身近になっていったようです。白瀬南極探検隊の隊員で、白瀬の秘書をしていた多田恵一は、新聞で南極探検の記事を見て「これは面白い、男子的な事業である」と応募し、初の内定者となりました。新聞は取材して記事にすれば、売り上げが伸びる。国民の関心も高まっていくという好循環ができました。

大隈重信による演説会の模様(写真提供:静岡県浜松市・村上正俊氏)


さらに義援金募集の記事も載せました。今でいうならクラウドファンディングです。新聞社に寄付金を持って行くと、翌日に名前と金額が掲載されたので、自分たちも南極探検に参加している、一助になっているという実感を持つことができ、一体感も生まれたのだと思います。

当時の新聞は全ての漢字に読み仮名がふってあったので、子供たちも読むことができました。子供たちが寄付をしたいと思うくらい夢中になったことが大人に関心を持たせることにつながった面もあったでしょうし、イギリスやノルウェーが南極を目指していましたから、白瀬は各国と南極点到着を競っているということも関心を集めた一因になったと思います。

余談ですが、実は今、秋田県出身の冒険家・阿部雅龍さんが「しらせルート」で南極点を目指しています。彼も同じように寄付で資金を集めました。今も同じように南極探検が行われているのかと思うと感慨深いです。


南極観測の礎を築いた探検家・白瀬 矗 <後編>

 



Writer

たびよみ編集部 さん

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