【おうちで南極体験】南極観測の礎を築いた探検家・白瀬 矗(しらせ のぶ)<後編>
明治45年1月5日、開南丸甲板上にて。3列目中央(左から2番目)が白瀬(写真提供:白瀬南極探検隊記念館)
前編に続き、日本人として初めて南極に上陸した白瀬矗について、その人となりや功績を白瀬南極探検隊記念館で副主幹(学芸員)を務める石船清隆さんに伺いました。
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幼き頃からの夢の実現を目指して、いざ南極へ!
明治43(1910)年11月29日、白瀬をはじめ30名の隊員たちは東京の芝浦から南極探検船「開南丸」で出航しました。「開南丸」は蒸気エンジンを搭載した木造で、大きさは204トン。現在の南極観測船「しらせ」は、氷を砕きながら進める船で1万2650トンもあります。「開南丸」は船の最下点から海面までの吃水に沿って鉄板は付いていますが、氷にぶつかると穴が開いてしまうくらいの強度です。ですから氷が現われると、氷を避けて縫うように航行する“縫航”をする必要がありました。そのため、寄港したオーストラリアのシドニーで操作性を向上させるために、帆を台形から三角形に修繕したそうです。
航海中は基本的に燃料を使いたくないので、なるべく帆で進むようにしていましたが、縫航は操作が難しいため石炭を燃やしプロペラを回して操縦します。できるだけ経済的に進むため、時には氷の上で寝ているアザラシを捕って、肉は食料に、脂は燃料にしたといいます。今ではアザラシを捕まえて食べるという発想はまずないですよね。禁止されていますから。
南極へのルートは、日本の航海技術を世界に知らしめたいという思いがありますから、野村直吉船長はイギリスと同じルートは辿りたくなかったようで、その気持ちを日誌に書いています。頑なにルートを辿らないようにしたので、どこに向かっているんだと隊員から不評を買ったという話もあります。以前、南極観測隊で活躍した方々に話を聞く機会があり、この日本独自の航海ルートに関して尋ねたところ、「イギリスのルートしかない、南極点を目指すなら自ずとルートは決まってくる」とみなさんが答えていたのが印象に残っています。
アムンセンが前人未到の南極点を踏破したのは明治44(1911)年12月14日。それから遅れること約2か月、明治45(1912)年1月16日、「開南丸」は南極ロス海ホエール湾に到着し、28日には南緯80度05分、西経156度37に日章旗を立て「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名、日本の領土と宣言しました。さらに南極点を目指しましたが、氷点下20度前後の厳しい寒気とブリザードのなか、2台のそりが離れ離れになるアクシデントもあり、走行9日、距離にして282キロで断念。2月4日、帰国の途に就きます。一人の死者も出さずに1年7か月にわたる長旅を終えたのです。
南極探検で背負った約1億円の借金を完済
南極探検の総費用は推定で12万円~12万5000円余り。寄付で集めた総額は7万1800円でしたので約4万円、現在の貨幣価値に換算すると約1億円の借金を白瀬が背負いました。生活は楽ではなく、食べ物にも困り「芋を送ってください」と知り合いに手紙やハガキを送って、南極探検で使った道具や現地で撮った写真と交換していたようです。昭和2(1927)年、アムンセンが来日した際に白瀬と会っていますが、この時、白瀬は自分の衣服がボロボロなので会いたくないと言っていたと聞いています。
もともと白瀬は軍人ではありますが、予備役といって有事の時に召集されて任務に付くという立場でした。探検前には宮城県や北海道庁の職員をしており、帰国後も同じような仕事をしていたようです。約1億円の借金を背負っての生活ですからもちろん苦しいですが、戦争中でもあり、苦しいのは借金のせいだけとは一概にいえない状況ではありました。
南極から戻った直後の5年間くらいは講演をしたり、南極で撮った映像を上映したりということもあったようです。ただ、設備や人手などの関係もあり、映像はどこでも気軽に見られるものではなかったと思うので、おそらく大きな都市で開催していたのだろうと想像します。その後は、例えば20周年、30周年といった記念の時に映像を流したようで、そうしたチラシやビラは今も残っています。白瀬が借金を全て返済したのは昭和10(1935)年のこと。帰国から20数年が経ち、74歳になっていました。
国際舞台に日本を押し上げるきっかけとなった白瀬南極探検隊
白瀬の南極上陸という実績に再度注目が集まるのは、南極に降り立ってから半世紀近く経ってからのことです。昭和32(1957)年7月1日から翌年12月31日まで、世界では国際的な科学研究プロジェクトのひとつ、国際地球観測年(IGY)があり、その2年前の昭和30(1955)年、ベルギーのブリュッセルで国際地球観測年特別委員会ブリュッセル会議が開かれ、そこに日本も参加しています。
第二次世界大戦から10年しか経っておらず、東京も空襲で焼け野原。なんとか頑張ろうという状況の中で、日本の研究者たちは南極観測に参加する意向を表明しますが、世界的には敗戦国であり国際舞台に上がる資格はないというのが大方の意見でした。それに異を唱えたのが、日本代表の永田武東京大学教授です。日本には白瀬南極探検隊の実績があると会議で主張し、それによって会議の最終日にようやく日本の参加が認められました。
南極観測は今年も63次隊が出発しています。基地も建設され、60年以上、毎年のように観測に参加できるのは、白瀬が南極へ行ったという実績の賜物です。白瀬の南極探検は日本を国際舞台に押し上げる大きな力になりました。目指した南極点踏破一番乗りは叶いませんでしたが、実際に南極に上陸したこと、さらに隊員全員が無事に帰国できたことは何よりの功績だと思います。
私は色々なところで白瀬に関して講演をする機会があります。その時にいつも最後に白瀬の言葉を紹介しています。
「人間は目的に向かって剛直にまっすぐに進むべきものである」
本人の名前の矗は直が3つありますが、これは自分で付けた名前です。元々の名前は知教(ちきょう)といいますが、改名して矗になりました。この言葉通り、剛直に進むという意味で名付けたそうです。白瀬自身の生きる姿勢を表しているので、話を締めくくるのにぴったりではないでしょうか。
<編集後記>
南極観測隊の礎を築いた白瀬矗という人は、少年時代から目標を掲げて努力し続け夢を叶えた、見事に真っすぐな人ですね。彼についてもっと知りたくなったという人は、ぜひ秋田県にかほ市にある白瀬南極探検隊記念館を訪ねてみてください。彼の壮大な夢とロマンに共感した隊員たちが繰り広げた南極探検の偉業をわかりやすく紹介しています。白瀬の生家から車で5分ほどのところに位置するので、少年時代を過ごした街の雰囲気も味わえるのも魅力です。
世界的な建築家の黒川紀章が設計を手掛けた建物も見どころです。日本海と飛島を望むロケーションで、記念館の建設後には公園も整備され、実寸大の開南丸の遊具が置かれています。石船さんは「実際にこの船を見ると、これで南極へ行ったのかとその無謀さに驚くと同時に、乗組員が優秀だったのが想像できます」と笑います。
館内にも原寸大の開南丸の内部の復元模型をはじめ、日本の南極観測の歴史や現在の状況、日本が南極点に到達した時に使われていた雪上車など興味深い展示があります。
「子供たちには先生の話を聞いて、白瀬のように剛直に自分で目標を立てて達成することを学んでほしいですし、掲げた目標に向かって努力をするような人間になってほしいです。来館したことでまずは白瀬矗を知り、その後成長して大人になるにつれて白瀬矗という人の生きざまにも思いを馳せて、そこから何かを感じとってくれれば嬉しいですね」と石船さん。
白瀬矗が生涯をかけて叶えた南極探検という偉業。白瀬がその地に立ち、見た南極はどのようなものだったのか――。ますます南極に興味がわいてきますね。