十麺十色 うどんの歴史
中国から伝来?
うどんの伝来には諸説あるが、ここでは二つの説を紹介したい。
一つ目は唐(とう)から帰国した空海(弘法大師)が、現在の香川県綾川(あやがわ)流域に伝えたという説だ。索餅(さくへい)と呼ばれる唐菓子(からくだもの)または小麦粉を団子状にしたものを持ち帰ったとされる。空海の姉が滝宮(たきのみや/香川県綾川町)に嫁いでいることなどから、ここで水車を用いて粉を挽き、うどんが作られるようになったという「滝宮発祥地説」がある。一方、滝宮を流れる綾川の下流にある府中町(坂出市)は7世紀に国府が置かれた場所で、水車群が存在していた。ここで小麦が挽かれ、うどん作りが始まったとする説もある(郷土史家の山田竹系著「随筆 うどんそば」1977年出版)。いずれにせよ、香川がうどん発祥の地とする説となっている。
もう一つは、鎌倉時代の円爾(えんに)(弁円、聖一国師)が宋(そう)からうどん、そばを博多に伝えたという説だ。福岡市博多区の承天(じょうてん)寺には『饂飩(うどん)蕎麦発祥之地』という石碑があり、この寺の僧である円爾が、うどん・そばの製粉技術を宋から持ち帰ったとされている。
原型は室町期に整う
我々が食べているうどん(小麦粉に塩水を加え、生地を鍛えて寝かせて、麺棒で延ばして切ってゆでて食べる)は、室町時代半ばにはあったとされる。ということは、麺棒や打ち板(麺板)などの道具がすでに存在していたということになる。麺棒に似た発音の言葉が、室町時代に編纂された国語辞典『運歩色葉集(うんぽいろはしゅう)』に収録されている。打ち板を作るための工具「台鉋(だいかんな)」の普及は16世紀頃とされる。
1643年刊行の『料理物語』は江戸時代の料理書で、切り麦、麦切りの作り方が書かれている。「うどん」という記述はないが、切り麦は麺の切り幅が細い小麦原料の麺のことで、麦切りは大麦原料の麺である。味付けは今のようなだし汁ではなく、みそベースのタレ状のものだった。
現在のしょうゆに近いものは室町中期に作られるようになった。そして室町後期になると醸造の工業化が始まり、江戸時代に醸造技術も発展する。こうしたしょうゆの普及に伴って、麺類の食べ方もみそだれ風のものからだし汁に変わっていった。
元禄期以降、全国へ
うどん屋は、元禄年間(1688〜1704年)には全国的に存在していたようだ。同年間に、絵師の狩野清信が金刀比羅(ことひら)宮(香川県琴平町)の例大祭の様子を描いた「金毘羅(こんぴら)祭礼図屏風」からは3軒のうどん屋が見て取れる。また、江戸時代に作られた古典落語『時うどん』に登場するほど、うどんはすでになじみ深い食べ物となっていた。
全国に「ご当地うどん」があるが、これらは諸藩の産業奨励政策に加え、庶民の寺社参りや大名の転封(てんぽう、国替え)、参勤交代などの影響を受けながら発展していった(稲庭うどんは、参勤交代の際、秋田 藩主が幕府に献上していたという)。数ある全国のうどんの中で「讃岐うどん」が全国区で有名になったのは江戸時代にブームになった「こんぴら参り」によるものだといわれている。
日本うどん学会監事 松井 隆
(月刊旅行読売2021年10月号掲載)
(WEB掲載:2021年12月31日)