十麺十色 全国ご当地うどん「稲庭うどん」(秋田)
つぶした後、熟成させたうどんをが均等の厚みになるように、さすりながら約120㌢の長さに延ばしていく
将軍にも献上された手づくりの芸術品
東京・浅草での買い物ついでに暖簾をくぐったのが、「佐藤養助浅草店」だった。いわずと知れた稲庭うどんの名店の支店だ。早速、しょうゆとごま味噌の2種のつゆで味わう「二ふ た味あ じせいろ」を注文。ざるに盛られて運ばれてきたうどんの繊細でつややかな様を見て、まずは眼福を得る。そして、心地よい歯ざわりと清涼感のある喉越しを体感して口福を感受した。会計を済ませた私は、すでに「現地で本場の稲庭うどんを食べてみたい」との衝動に駆られていた。
一子相伝から地場産業へ発展
現地とは、秋田県湯沢市稲庭町。山あいにある小さな集落だが、稲庭うどんの発祥の地である。ほとんどの物事の歴史は、語り手の立ち位置によって話に若干の差異があるものだ。ここで紹介する稲庭うどんの歴史は、「佐藤養助商店」の家伝や秋田県稲庭うどん協同組合の説明などに基づく。
稲庭うどんは、江戸初期に稲庭地区の佐藤市兵衛が干しうどんを製造したことに始まるという。冬は雪深い地域であり、保存食として「乾麺」が作られたようだ。その後、1665年に佐藤吉左エ門(宗家)が「稲庭干温飩(うどん)」を創
業し、秋田(佐竹)藩から「干温飩」の御用製造を命じられる。1860年には、当時の佐藤吉左エ門(代々、当主は同じ名前を名乗る)の四男が「佐藤養助」家に養子に入り、宗家に伝わる一子相伝の製造方法を特別に伝授され、製造を開始。これが、「佐藤養助商店」の前身となる。その後、「佐藤養助」家は、明治新政府の宮内省からも受注。1972(昭和47)年に一子相伝の秘法を公開することに踏み切ったことで、稲庭うどんの製造はこの地方の地場産業となっていったという。
稲庭うどんは、江戸時代には佐竹家が独占。参勤交代の際、佐竹家は幕府への献上品としても利用していたという。その後、近代に入ってからも皇室に納品されるなど、つい50年ほど前まで庶民には縁遠い食べ物だったようだ。
「遠来のお客様からは、『ここで食べる稲庭うどんは格別』と言われます」と語るのは、佐藤養助商店・経営企画部長の今野弘志さん。そして、今野さんは「総本店では工場見学も行っているので、練る、手綯(な) い、つぶし、延ばしなど3日がかりの製造工程を実際に見てもらうこともできます」と続けた。
工場見学後、浅草店で味わった「二味せいろ」を再び注文。光沢のある細めの平麺で、盛り付けられた姿は「芸術品」のようですらある。そして、口に運べば、なめらかな口当たりと格別な喉越しで、心なしか、浅草で食べた時以上の「口福」感に満たされた。
「全店舗で提供しているうどんは、すべてここ稲庭で作っている」(今野さん)のだから味に違いはないはずなのだが、ほかの遠来の客たち同様、私も格別感を覚えながら、コシと喉越しを楽しんだ。
佐藤養助 総本店
地元秋田県を中心に、東京などに計13店舗(横浜市などに直売所も)を構える名店の総本山。
■11時~17時(販売は9時~)/年末年始休/イス、座敷など60席/湯沢市稲庭町稲庭80/TEL:0183-43-2911
【取り寄せ情報】https://www.sato-yoske.co.jp/shopping/
(旅行読売2021年10月号掲載)
(WEB掲載:2021年12月20日)