承久の乱の舞台・京都を巡る――流転の京(みやこ)へ(1)
宇治川。1221年(承久3)6月14日、北条義時の嫡男・泰時率いる幕府方と、藤原秀康が総大将の朝廷方が衝突した、承久の乱最大の戦いの舞台。宇治川を幕府軍は突破し、京へとなだれこんだ。
800年前、鎌倉から実権を取り戻すため、北条義時追討の兵を挙げた後鳥羽上皇。その目論見はあっけなく崩れ去った。京都でそのゆかりの地を訪ねる。
都への交通の要衝であり防衛線である宇治は、幾度となく戦(いくさ)の舞台となった。平家打倒を目指した以仁王(もちひとおう)と源頼政の挙兵、源範頼・義経による木曽義仲の追討、そして承久の乱。風光明媚な地でありながら、何度も戦火に見舞われている。
800年前の1221年、源頼朝亡き後の鎌倉幕府の混乱に乗じ、後鳥羽上皇が北条義時追討の兵を挙げたことに始まる承久の乱。幕府方に尾張と美濃で惨敗した朝廷方の最後の砦が、宇治川だった。
城南宮は後鳥羽上皇が流鏑馬((やぶさめ)を口実に兵を募り、義時追討の決起をした城南離宮(鳥羽離宮)の鎮守。『承久記』には「鳥羽の城南寺の流鏑馬そろへと披露して」との記述がある。
都の南西、石清水八幡宮には、義時の花押がある「関東下知状」が伝わる。征夷大将軍「鎌倉殿」の仰せによって執権北条氏が奉じて出す鎌倉幕府の文書は、以後公的な武家文書の中心的様式となった。
平安末期、この世の栄華を極めた平家の屋敷が立ち並んだのが六波羅だ。平家滅亡後は源氏が都の拠点とし、承久の乱後は幕府が朝廷を監視する六波羅探題が置かれた。六波羅蜜寺の境内には、移転された石碑が残る。
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