【孤浴の秘湯】湯の網温泉 鹿の湯松屋
このトマトジュースのような赤い湯を見よ! 鉄分たっぷりな温泉マニア憧れの湯である
孤浴の三つの条件を満たす北茨城の一軒宿
茨城県というとあまり温泉のイメージがないと思う。こと秘湯となるとなおさらではないだろうか。ところがどっこい! とっておきの秘湯がある。しかも、いわゆる人に教えたくない系の、こぢんまりとした穴場感たっぷりな秘湯。湯がかなり個性的な、知る人ぞ知る名湯だったりするのだ。
湯の網温泉。茨城の北端、ちょっと行けばもう福島県といった里山に、民宿みたいなひなびた温泉宿が1軒だけある。その鹿の湯松屋のことを、温泉マニアは密かに「トマトジュース温泉」と呼んでいる。というのも、湯が鉄分を多く含んでいて、まぁ~赤いのだ。
紹介の前にボクが考える「孤浴」を最大限に楽しむための三つの条件に触れておこう。まず一つ目。孤浴とはこの忙(せわ)しない世界から離れてひとりで湯を楽しむことだから、ホンモノの穴場であること。人がうじゃうじゃいるところではなく、「え? それ、どこ?」と言われるようなところが理想だ。二つ目は、ほかにはない個性があること。誰にも教えたくない。でも自慢したい。そんな感情がせめぎ合うような個性がある温泉宿。そして三つ目は極上湯であること。これは説明不要だろう。
鹿の湯松屋はその三つの条件を見事に満たす温泉宿なのである。宿を切り盛りするのは赤津悌彦(やすひこ)・孝子さん夫妻。こぢんまりとした田舎の湯治宿は素朴で全く飾り気がなく、変に気を遣わずにすむので心から落ち着ける。昔ながらの木枠の窓。どことなく生活感漂う居間で、お茶をいただき女将さんと雑談しながら湯の特長を聞いていると、いよいよ気分が高まってくる。田舎の里山にある一軒宿だから、やかましい観光的要素などどこにもない。昔ながらの湯治宿の雰囲気に浸って、ひたすら孤浴を楽しめるのだ。
孤浴の悦楽を教えてくれる「トマトジュース温泉」
部屋に荷物を置いたらさっそく湯につかろう。浴室は一つだけで男女兼用。といっても、混浴ではない。入り口に入浴中を知らせる「男」「女」の札をかける方式で、空いていれば、〝独泉〞できることもある。
浴室の中へ入るとまさかの大正ロマン風。レトロでハイカラな窓の木枠や可愛らしいステンドグラスの明かり取りの窓に目を奪われる。浴室の真ん中には鹿が発見したという伝承を描いた趣あるタイル絵。でも、最も強い印象を受けるのは湯船だろう。すごい!と思わずにいられない赤茶色の湯がなみなみと湛(たた)えられたポリ製の水色の湯船。なんというか、この大正ロマン風の世界観をぶち壊すのをはばからないチープな湯船に、濃厚な色の湯が張られている。そのアンバランスさが強烈な視覚的インパクトとなっていて実に面白いのだ。
はやる気持ちを抑えながら、かけ湯をして湯につかってみると、見た目に違(たが)わぬ素晴らしい湯。体がみるみる温まっていく。湯に含まれた鉄分と塩分のじわじわ心地いい2段攻撃を受けている感じだ。たまらないなぁ。
キンキの塩焼きに感じる幸福
湯から上がって部屋でだらだら過ごして、やがて夕食の時間を迎えると、女将さんが食事を運んできてくださった。野菜の炊き合わせと刺し身とみそ汁、漬物、そしてこの宿の名物であるキンキの塩焼きだ。湯治宿ならではのシンプルなメニューでありながら、その真ん中に高級魚のキンキの塩焼きがドンとある。港が近いので、うまいのだ、これがまた。
観光的なものはなにもない。飾りっ気もない。気忙(きぜわ)しいべったりな接客もない。穏やかな女将さんがいて、素朴なうまい飯があって、昔ながらの趣とかわいいレトロな浴室、そしてなぜだかチープな湯船とトマトジュースのような極上湯。これで十分じゃないか。うんうん、こういうのがいいのだ。これこそ孤浴の悦楽の旅。幸せだなぁ。誰にも教えたくないなぁ。そんな思いとともに夜は更けていったのである。
文・写真/岩本 薫
住所:茨城県北茨城市関南町神岡下1435
交通:常磐線大津港駅から徒歩1時間またはタクシー10分/常磐道北茨城ICから10㌔
TEL:0293-46-1086
ひとり泊の料金:1泊2食1万435円~(2人1室同料金)※最新の料金は、公式ホームページでご確認ください。
ひとり泊の条件:年末年始など繁忙期を除く
ひとり泊の客室:トイレなし6畳和室など(全10室)
ひとり泊の食事:夕・朝食=部屋
(出典 「旅行読売」2021年12月号)
(ウェブ掲載 2022年2月21日)