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【東京さんぽ】太宰治が晩年を過ごした三鷹界隈を歩く

場所
> 三鷹市
【東京さんぽ】太宰治が晩年を過ごした三鷹界隈を歩く

三鷹跨線人道橋の北西側の階段

 

えっ、あの陸橋がなくなる?

三鷹の陸橋が、一部を保存して撤去されるという新聞記事を読んで驚いた。正式には「三鷹跨線(こせん)人道橋」という。1929年建設である。その10年後に三鷹に住み始めた太宰はこの陸橋が気に入り、しばしば訪れたと聞く。マント姿で階段にたたずむ写真もある。解体の時期は未定だが、見納めに行こうと中央線に乗った。

全長約90メートル、幅約3メートル、高さ約5メートルの陸橋は中央線などの線路をまたぐように作られている。階段を上がると、20人~30人ほどの人がいた。お年寄り、子ども連れや恋人たち、カメラを構えた鉄道ファンらしき人もいる。眼下の中央線を間断なく電車が通過する。金網越しだが、見晴らしはいい。ゆっくり行ったり来たりして、しばらくぼんやりした。

せっかくなので「太宰治文学サロン」で「三鷹太宰治マップ」を買い、地図を見ながら太宰を偲(しの)ぶさんぽをすることにした。

陸橋の四つの階段のうち、太宰が写真を撮ったと される南東側の階段

太宰の通ったうなぎ屋の若松屋跡、仕事場に借りて『斜陽』を書いた田辺肉店離れ跡など、地図には三鷹駅周辺の太宰ゆかりの場所が記されている。今は建物はすべてなくなり、あるのは案内板だけだが、歩く距離感は実感できる。実際に見える高い建物は頭の中から排除し、昭和10年代を思い浮かべる。

着物に下駄履きの太宰が歩いたであろう道を歩いて20分ぐらいで旧居跡に着いた。向かいの「みたか井心亭」(市の文化施設)の垣根に旧居の玄関脇にあった百日紅(さるすべり)の木が移植されている。が、その百日紅は枝を剪定(せんてい)されて昔の樹影ではない。

玉川上水の南側の遊歩道、風の散歩道

平和通りを北へ向かうと玉川上水に出る。上流へ少し歩くと、太宰の故郷、青森県の金木産の玉鹿石(ぎょっかせき)がひっそりと置かれている。山崎富栄さんと2人、入水心中をしたのはこの辺りだという。当時の玉川上水は新宿の淀橋浄水場へ通じていたから満々とした流れだった。夜中、二人はもつれるように水に沈んだ。

太宰治文学サロン学芸員の吉永麻美さんは「晩年の『人間失格』などを読んで、太宰を破滅型の私小説作家のように思われている方が多いですが、家庭人としての側面も持っていました。三鷹時代の前、前期、中期の作品も読んでほしいものです」と語る。 

大地主の息子、それを苦にする青年、気の弱い自意識家。それにしても未遂も含めて心中の多い男だった。作家の心の中は分からない。それでもよい作品はよい。文学とはそういうものだと思わされたさんぽだった。さんぽで見た庭木の梅が満開で、いい匂いがした。

文・写真/橋本克彦


(出典:「旅行読売」2022年5月号)

(掲載:2022年7月9日)


Writer

橋本克彦 さん

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