【家康の城へ】最終章 「東照大権現」となった徳川家康(2)
静岡市駿河区にある久能山東照宮
権威と権力を絶対化した徳川家
【家康の城へ】最終章 「東照大権現」となった徳川家康(1)から続く
1617(元和3)年4月、日光東照社が創建され、将軍秀忠は多くの大名を引き連れ、大々的に参詣を執り行った。京都から招いた天皇の勅使(ちょくし)をはじめ、多くの公家、天皇家や公家出身の高僧である門跡(もんぜき)などが参列する法会(ほうえ)が催された。家康の七回忌にあたる元和8年には、久能山(くのうざん)ら移された家康の棺(神柩=しんきゅう)を収める奥社の建造物も整えられた。
=この段階で、すでに家康の遺言は実現していた。しかし、「創業者」である家康の権威をさらに上げて、結果として幕府権威の上昇につなげようという動きは、その後も続いた。3代将軍家光は、特に祖父である家康の神としての威光を強調することで、将軍家の権威と権力を絶対的なものにすることに腐心した。
家光は、1634(寛永11)年に、日光東照社の建て替え(大造替)を開始した。現在の陽明門をはじめとする豪壮華麗な建造物は、このとき家光によって建造されたものだ。さらに家光は日光東照社と東照大権現(とうしょうだいごんげん)の格式を高めるため、東照社を天皇家の祖先である神を祀る伊勢神宮、石清水(いわしみず)八幡宮と同格とすること、そして東照社の例祭を、天皇の命令(御願)で執行されるという形式にすることを朝廷に認めさせた。
そして、1645(正保2)年には後光明(ごこうみょう)天皇による宮号宣旨(せんじ)を得て、東照社の正式な社名を、より格式の高い東照宮とすることに成功した。これ以降、日光東照宮の例祭には天皇の使者が下向することになり、日光例幣使(れいへいし)と呼ばれるようになった。
全国各地に建立された東照宮
以後、東照宮は日本各地に造営されるようになる。最初に造られたのは、家康が没後すぐに埋葬された久能山、江戸城内の紅葉山(もみじやま)、そして御三家の尾張名古屋、紀州和歌山、常陸水戸(ひたちみと)の東照宮だった。続いて各地の大名家や大寺社が東照宮を造るようになる。幕府に対する配慮という側面もあったが、家康にあやかりたいという思いもあったのだろう。
東照宮は近代に至るまで造営が続き、最終的には北は択捉(えとろふ)から南は鹿児島まで、確認されるだけでも数百に及んでいる。NHK大河ドラマ「どうする家康」を見て興味を持たれた方は、ぜひ近くの東照宮に参拝し、神となってこの国を守護しようとした家康の思いに触れてみてはいかがだろうか。
文/安田清人