【家康の城へ】最終章 「東照大権現」となった徳川家康(1)
神として描かれた徳川家康画像(東京大学史料編纂所所蔵模写)
神として祀ることを遺言とした家康
1616(元和2)年4月17日、徳川家康は隠居城である駿府(すんぷ)城(静岡市)で75歳の生涯を閉じた。家康の遺体は、その日の夜に駿府城の東に位置する久能山(くのうざん)に移された。同月19日には、吉田神道を率いる神道界の実力者である神龍院梵舜(しんりゅういんぼんしゅん)の手によって、家康は「神」として久能山に設けられた「御廟(ごびょう)」に葬られた。
家康が「神」として葬られたのは、本人の遺言に従ったものだった。亡くなる半年前、家康は長年ブレーンとして仕えた京都南禅寺金地院(こんちいん)の僧侶・以心崇伝(いしんすうでん)、日光山を拠点とする天台宗の僧侶・南光坊天海(なんこうぼうてんかい)、そして晩年の家康の側近として重きをなした本多正純(ほんだまさずみ)を枕元に呼び寄せて遺言を伝えた。
「自分が死んだら遺体は久能山に納め、葬礼は徳川家の江戸における菩提(ぼだい)寺である増上寺(ぞうじょうじ)で行うこと。位牌は先祖松平氏の菩提寺である三河岡崎の大樹寺(だいじゅじ)に建て、一周忌が過ぎたら日光の山内に小さな堂を建てて、自分を神として祀(まつ)ること……」
家康は、死後もなお江戸幕府と、ひいてはこの国の守護神となることを願ったのだ。
徳川の権威を朝廷と同格に!?
2代将軍秀忠は、この遺言を忠実に実行し、一周忌となる元和3年には、家康の神体は久能山から日光山(栃木県日光市)へと移された。
日光山では、すでに元和2年から社殿の造営が始まっていた。造営奉行を務めたのは本多正純と、築城の名人としても知られる津藩藩主の藤堂高虎(とうどうたかとら)だった。大工頭として畿内の大工職人を率いる中井正清(まさきよ)が工事を統括。菅原道真を祀る北野天満宮や、豊臣秀吉を祀る豊国神社の建造物が参考とされた。
これらの造営や、神を迎え祀る勧請(かんじょう)の儀礼にあたっては、天皇の命令によって執行される形をとった。最高の権威と格式で家康を祀るためだ。神の名である神号をどうするかで崇伝と天海の間で論争となったが、豊臣秀吉が「豊国大明神」という明神号を選んだこともあり、天海の主張する「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」が選ばれ、後水尾(ごみずのお)天皇の勅許(ちょっきょ=認可)も得られた。権現とは、日本古来の神と外来の仏教とが合体した神仏習合の考え方に基づく神の名で、僧侶が祀る神の神号だった。
朝廷側は、こうした動きに対し、当初は抵抗を示した。家康を最高の格式をもって神として祀るということは、徳川家の権威を天皇家と同格と認めることにつながるからだ。しかし、最終的には幕府の要求をのみ、神号を東照大権現とすることを受け入れた。
文/安田清人