【家康の城へ】豊臣家と徳川家の野望がうずまく 大阪城(1)
極楽橋から天守を眺める。現在の極楽橋は鉄筋コンクリートで再現したもの
家康は、秀吉の建てた「大坂城」を何度も訪れていた
秀吉が天下を統一する拠点として、難攻不落の「大坂城」の築城を始めたのは1583(天正11)年。その後30年余りたち、家康が大坂夏の陣でこの城を落城させることになる。
大阪城天守閣、学芸員の加藤壱弥(いちや)さんは「家康は、秀吉の建てた大坂城に長期滞在などを含めて少なくとも9回は訪れています」と話す。
家康が初めて訪問した際、秀吉は前日に家康の宿泊所に出向き、謁見(えっけん)する時は非常に丁寧に挨拶してほしいと頼んだそうだ。自分は上の立場であり、家康が深く頭を下げるくらいすごい人物なんだと、周囲にデモンストレーションしたかったわけだ。
関ヶ原の戦いの引き金になった出来事
ところが、秀吉が亡くなると、少し様相が変わってくる。まだ6歳だった秀吉の子、秀頼が政権を担うのは難しいことから、政治は家康や前田利家らの五大老と石田三成らの五奉行の合議で行うという取り決めだったが、秀頼の補佐として大坂城にいた前田利家が病死、石田三成も失脚し、家康の立場は強くなっていった。
そして、1599(慶長4)年、家康は本丸の秀頼を訪問したあと、そのまま西の丸に滞在、4層の天守まで建ててしまった。大坂夏の陣図屏風(重文)には、本丸の天守の右下に、家康が建てた天守ともいわれる櫓が描かれている。
「当時、政治の中心は伏見にありましたが、大坂城は豊臣家を象徴する大事な城で、その本丸の天守に幼い秀頼がいました。そこへ乗りこみ、家康は西の丸にも天守を築いて居ついてしまった。周囲にはそう映ったかもしれません」(前出・加藤さん)
当然、秀吉の直臣たちは憤慨した。それが関ヶ原の戦いの大きな引き金になったと言われている。
現在残っている石垣などの遺構は、家康の三男の第2代将軍秀忠が秀吉の「大坂城」の上に盛り土をして新たに築いた徳川の「大坂城」。秀吉の「大坂城」の姿を見ることはできない。
が、幸いなことに、大阪城天守閣には秀吉の「大坂城」を思い描くヒントになる資料が多数展示されている。3階には、「徳川時代大坂城復元模型」とともに秀吉の「大坂城」本丸の推定復元模型がある。さらに5階では大坂夏の陣の情景をパノラマビジョンやミニチュアで再現、ゆかりの地も紹介している。まずは見学してから歩きたい。
文/高崎真規子 写真/宮川 透
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入城:天守閣は9時~16時30分(季節により異なる)/年末年始休/600円
交通:地下鉄谷町線谷町四丁目駅、大阪環状線大阪城公園駅、京阪電車天満橋駅から徒歩約20分
TEL:06-6941-3044(大阪城天守閣)
※データは掲載時のものです。
【家康メモ】
豊臣家の力の象徴だった城徳川家康が初めて大坂城を訪れたのは1586(天正14)年のこと。前年に関白に就任した秀吉への臣従のためだった。秀吉が亡くなった翌年の1599(慶長4)年、秀頼を訪問した際には、西の丸に4層の天守を建て、数か月間滞在している。城主でもないのに本丸とは別に天守を建てるとは何事かと、豊臣家の奉行衆が出した家康を弾劾する手紙にも書かれ、関ヶ原の合戦の原因にもなったと伝わる。そして家康は1615(慶長20)年、大坂夏の陣で大坂城を攻め、豊臣の天下に終止符を打った。
(出典:「旅行読売」2023年2月号)
(Web掲載:2023年3月11日)