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【家康の城へ】乱世を生き抜く知略で築いた名古屋城(1)

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【家康の城へ】乱世を生き抜く知略で築いた名古屋城(1)

復元模写された狩野派の障壁画を本丸御殿で鑑賞。柔和な顔のトラとヒョウに心和む

 

豊臣方をけん制し、天下普請で築いた巨大な城

尾張徳川家の居城として栄えた名古屋城は、名古屋市中心部に広がる熱田(あつた)台地の縁に立つ。強固な防御力を備えた巨大な城郭には、天下を統一した家康の野望がうず巻いているのだろう。そんな先入観を持って正門を通り抜け、金色の鯱鉾(しゃちほこ)が光る天守を見上げた。耐震性の問題などで現在は閉館中だが、ゴージャスな外観だけでも圧巻だ。

5層5階地下1階の巨大な天守。銅板ぶきの屋根色が白壁に生えて美しい

ボランティアガイドの案内で城内を歩くと、石垣の多様な刻印が目についた。「各地の大名が自分の運んできた石に刻んだものです」とガイドさん。征夷(せいい)大将軍となり江戸幕府を開いた家康が、脅威に感じていたのは大坂の豊臣家だった。秀吉の子・秀頼と豊臣方の大名を牽制(けんせい)しようと策を練った家康は、大名20家に費用を負担させる〝天下普請〟での築城を命じたのだ。動員された大名たちの出費は、さぞ巨額だっただろう。城造りに散財させて勢力を削ぐとは、家康の知略おそるべし。

本丸御殿の正式な入り口・玄関車寄

最大の見どころは近世城郭御殿(ごてん)の最高傑作とされる本丸御殿だ。家康の九男・尾張徳川家初代当主の徳川義直が一時期住居とし、正室・春姫との婚儀もここで行われた。第2次世界大戦の空襲で天守と共に焼け落ちたが、2018年、史料や写真を基に内装まで忠実に復元された。

上洛殿を豪華に彩る彫刻欄間。復元した現代の名工たちの技巧にも感服する
新設された「西の丸御蔵城宝館」で城の歴史を学ぶ

本丸御殿には13棟の建物と30を超える部屋がある。表書院、上洛殿などどこを見ても豪華絢爛(けんらん)。天井や建具の装飾も見事だが、印象的だったのが襖絵(ふすまえ)のトラだ。勇猛に威嚇(いかく)するのではなく、トラの親子や夫婦がじゃれ合うようなほほ笑ましい様子が描かれていた。幼少期を今川家の人質として暮らし、妻子を死に追いやったこともある家康。彼もまた乱世の犠牲者だからこそ、天下泰平を希求したのだろうか。

文/北浦雅子 写真/宮川 透

 

【家康の城へ】乱世を生き抜く知略で築いた名古屋城(2)へ続く

名古屋城の御城印

名古屋城

■御城印:あり(300円)
■入城:9時〜16時30分(本丸御殿・西の丸御蔵城宝館への入場は〜16時)/12月29日〜元日休/観覧料500円
■交通:地下鉄名城線市役所駅から5分(1月4日〜名古屋城駅に名称変更)または観光ルートバスメーグル名古屋城からすぐ
■TEL:052-231-1700(名古屋市観光文化交流局)

※掲載時のデータです。

【家康メモ】

名護屋城は豊臣方を牽制する城だった。関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は、大坂の豊臣家に対抗するため1610(慶長15)年に名古屋城の築城を開始する。拠点としていた清須城一帯は水害が多発するなどの弱点があり、堅固な地盤の熱田台地に遷府を決めた。

この遷府は「清須越(ごし)」と呼ばれ、築城に関わる者や武士や町人、寺社などを町名ごと移転させる家康の一大プロジェクトだった。1612(慶長17)年に天守が竣工し、3年後に本丸御殿が完成。尾張徳川家初代当主・徳川義直の居城となった名古屋城を核に城下は発展を遂げる。

 

(出典:「旅行読売」2023年2月号)

(Web掲載:2023年5月31日)

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Writer

北浦雅子 さん

和歌山の海辺生まれで、漁師の孫。海人族の血を引くためか旅好き。広告コピーやインタビューなど何でもやってきた野良ライターだが、「旅しか書かない」と開き直って旅行ライターを名乗る。紀伊半島の端っこ、業界の隅っこにひっそり生息しつつ、デザイナーと2人で出版レーベル「道音舎」を運営している。https://pub.michi-oto.com/

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