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【伊東潤の 英雄たちを旅する】第9回 宇喜多秀家と岡山

場所
> 岡山市
【伊東潤の 英雄たちを旅する】第9回 宇喜多秀家と岡山

旭川沿いに立つ岡山城天守は、「令和の大改修」を終えて昨年11月にリニューアルオープン。耐震工事やバリアフリー対応のほか、外壁も塗り直された

 

 

プロフィール
伊東 潤(いとう じゅん)

1960年、神奈川県横浜市生まれ。歴史作家。2013年、『国を蹴った男』で吉川英治文学新人賞、『巨鯨の海』で山田風太郎賞を受賞。過去5回、直木賞候補となる。近著に、敗れ去った日本史の英雄たち25人の「敗因」に焦点を当て歴史の真相に迫るエッセー『敗者烈伝』(実業之日本社)などがある。

 

わずか10歳で宇喜多家の家督を継いだ秀家

宇喜多秀家は1572(元亀3)年、備前国の戦国大名・宇喜多直家の次男として生まれた。1581(天正9)年に父・直家が死去したことで宇喜多家の家督を継いだが、この時、わずか10歳だった。

織田信長の傘下に入り、本領を安堵(あんど)された秀家は羽柴秀吉の配下となり、備中高松城攻めにも協力する。ただしこの時、秀家はまだ元服前だったので出陣していない。

その後、本能寺の変で信長が倒れ、山崎の戦いを勝ち抜いた秀吉が天下を取ると、秀家は備前・美作(みまさか)両国にまたがる47万石の大名に取り立てられる。中国の覇者・毛利氏の抑えとされたのだ。

秀家は秀吉を父のように慕い、秀吉も秀家を可愛がり、元服の際には、その一字を与えて秀家と名乗らせている。また秀吉は秀家を猶子(ゆうし)とした。猶子とは家督や財産の相続権を持たない養子のことで、秀吉の親類筋や古参家臣でも、猶子にはされていない。これは、秀吉が秀家に格別の思いを持っていたことの証しになる。

正室に前田利家の娘の豪(ごう)を迎えた秀家は、秀吉の四国攻め、九州攻め、小田原合戦にも参陣し、武将としての実績を積んでいく。

「少し足を延ばせば、桃太郎伝説を生んだ吉備津神社や倉敷美観地区というレトロな雰囲気を今に伝える観光地もある。また秀吉の水攻めで有名な備中高松城址にも行ってみたい」という伊東さん。吉備津彦命の温羅(うら)退治の伝説が伝わる吉備津神社。桃太郎伝説の原型とされる。
羽柴秀吉と毛利氏配下の清水宗治が戦った備中高松城の跡は公園として整備

文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役では一手の大将を任され、李氏朝鮮国の首都・漢城に入り、明(みん)軍の攻撃を阻むという大功を挙げる。帰国後、豊臣政権の五大老に指名された秀家は、豊臣家の柱石となっていく。

しかし秀吉が没すると豊臣家中は分裂し、関ヶ原の戦いが勃発する。この戦いで西軍に与して奮戦した秀家だったが、武運拙(つたな)く敗軍の将となり、薩摩の島津家に匿(かくま)われた。だが家康の天下が確定し、島津家に迷惑を掛けることを恐れた秀家は、自ら名乗り出て八丈島へと配流(はいる)される。

八丈島の暮らしは過酷で、日々の食べ物にも事欠く有様だった。秀家は飢えに苦しみながらも84年の天寿を全うするが、末期(まつご)の言葉は「米の粥を食べて死にたい」だった。

秀家の岡山での足跡を知るには、岡山城に行くのが一番だろう。

旅の起点となる岡山駅の前にある桃太郎像

1590(天正18)年、直家・秀家の宇喜多2代によって創築されたこの城は、秀家の改易(かいえき)後、岡山城に入った小早川秀秋、続いて池田忠雄によって大幅に増改築されたが、秀家が健在だった頃の威容を今に伝えている。

天守は岡山空襲で焼失してしまったが、1966(昭和41)年に復元され、ほぼ往時の外観を取り戻している。下見板(したみいた)に黒漆(くろうるし)が塗られていた天守の美しさは独特で、太陽光を受けると烏(からす)の羽のように輝くことから烏城(うじょう)とも呼ばれた。2021年から22年にかけては、耐震補強などを目的とした「令和の大改修」が行われた。

令和の大改修で城内展示も一新

岡山城の近くにある日本三名園の一つ後楽園(こうらくえん)は、池田家によって江戸時代半ばに造られた大名庭園で、四季折々の草花が楽しめる。

蒼天(そうてん)を衝(つ)くように毅然として立つ岡山城の天守を眺めていると、正々堂々と戦って敗れ去った秀家の「自らの決断に悔いはない」という声が聞こえてきそうだ。

文/伊東 潤

写真協力/岡山県観光連盟

岡山後楽園では紅葉期の11月中旬~下旬、夜間特別開園「秋の幻想庭園」が行われる

英雄メモ🖋

宇喜多秀家(うきたひでいえ)[1572 ~ 1655]

安土桃山時代の武将。備前岡山城主。父は直家。織田信長の死後、羽柴秀吉に仕えて重用され、四国・九州・小田原征伐や文禄・慶長の役で軍功を挙げ、豊臣政権の五大老(徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、前田利家)の一人となった。秀吉の死後に起こった関ヶ原の戦いで西軍について敗北。流された八丈島で約50年後に没した。


[岡山城天守への交通]
岡山駅前停留場から岡山電気軌道5分の城下停留場下車、徒歩10 分

[観光の問い合わせ]
TEL:086-222-2912(岡山市ももたろう観光センター)

※記載内容はすべて掲載時のデータです。

(出典:「旅行読売」2023年10月号)
(Web掲載:2024年12月9日)

 


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