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【伊東潤の 英雄たちを旅する】第15回 加藤清正と熊本

場所
> 熊本市
【伊東潤の 英雄たちを旅する】第15回 加藤清正と熊本

二の丸広場から見る大天守と小天守。両天守は震災復興のシンボルとして2021年に完全復旧した

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プロフィール
伊東 潤(いとう じゅん)

1960年、神奈川県横浜市生まれ。歴史作家。2013年、『国を蹴った男』で吉川英治文学新人賞、『巨鯨の海』で山田風太郎賞を受賞。過去5回、直木賞候補となる。近著に、敗れ去った日本史の英雄たち25人の「敗因」に焦点を当て歴史の真相に迫るエッセー『敗者烈伝』(実業之日本社)などがある。


「火の国」熊本の主と言えば加藤清正

熊本県は「火の国」と呼ばれる。その由来は様々あり、神話に由来する説、肥後国の「肥の国」が「火の国」になったという説、火山活動が活発な阿蘇山から取られたという説、干潟が多かったので「干の国」だったのが、火の字に変化したという説もある。だが、どれだろうと熊本に「火の国」というイメージは欠かせない。そんな「火の国」の主と言えば加藤清正だろう。

清正と熊本は切り離せないが、清正の出身地は尾張(おわり)国、すなわち愛知県になる。清正は秀吉子飼いの家臣の一人として、賤(しず)ヶ岳(たけ)の戦いで名を挙げ、その後も秀吉の馬前(ばぜん)を駆け回り、秀吉の天下制覇に多大な貢献を果たした。その功を認められた清正は3000石から19.5万石に加増され、肥後半国の領主とされた。この大抜擢(ばってき)に応えた清正は文禄(ぶんろく)・ 慶長(けいちょう)の役でも活躍したが、関ヶ原の戦いでは、徳川方に付いて九州の大坂方勢力を駆逐し、その功によって家康から肥後一国52万石を拝領する。それだけでなく清正は、熊本では今でも「清正公(せいしょうこう)さん」と呼ばれて尊敬されるほど善政を敷いたことでも知られる。

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熊本城の長塀近くに立つ加藤清正公像

清正と言えば、以前は虎退治で知られる荒大名の代名詞のような存在だったが、今では城造りの名人としての方が有名だ。そんな清正が心血を注いで造った熊本城は、熊本に行ったら見逃せない場所だ。

2016年、熊本は大地震に見舞われ、甚大な損害を出した。その時、城も甚大な被害を受けた。犠牲になった方々のことを思えば、城など二の次かもしれないが、テレビで見た熊本城の損害に目も当てられなかった。私は取材で12年と14年の2回にわたり、熊本城の現存遺構をじっくり見ることができたが、その時、「よくぞこれだけのものを残してくれた」という感慨を抱いた。しかしそれもあの地震で水泡に帰してしまった。その雄姿が蘇(よみがえ)るのは遠い先かもしれないが、それでも地元の方々と関係者の懸命の努力により、熊本城は着実に復活の道を歩んでいる。

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市電が走る通りから見る熊本城

熊本では水前寺成趣(じょうじゅ)園にも行ってほしい。こちらは肥後細川家初代藩主の忠利から3代かけて造られた桃山様式の回遊式庭園で、池を中心にして見事な枝ぶりの松や築山などを眺めながら回遊すると、大名気分が味わえる。

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肥後藩主細川家の大名庭園、水前寺成趣園

熊本市内からは少し遠いが阿蘇山も外せない。阿蘇観光の代表的スポットの草千里(くさせんり)ヶ浜(はま)の美しさは筆舌に尽くし難い。私が初めて行ったのは1980年代だったが、眼前に広がった緑一色の光景に感動したのを覚えている。ここには新緑の初夏に行ってほしい。

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阿蘇を代表する名所の草千里ヶ浜は、標高約1100メートルに大草原が広がり、放牧された牛馬たちの姿も見られる

熊本の郷土料理は「からし蓮根(れんこん)」だろう。実は以前、歴史番組で熊本城を特集した折、「からし蓮根」を食べる企画があり、一切れ食べたところ辛すぎて涙と鼻水が止まらなくなり、収録を中断させてしまった苦い思い出がある。それでも昨年熊本に行った時、恐る恐る食べたら平気だったので、やはり心の準備は大切だと思った。私にとって「からし蓮根」は、まさに「火の国」の象徴だった。

文/伊東 潤

写真協力/熊本県観光連盟

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レンコンにからしみそを詰めて油で揚げた「からし蓮根」は、熊本藩主の滋養食が発祥という説がある

英雄メモ🖋

加藤清正(かとうきよまさ)[1562 ~1611]

安土桃山時代、江戸初期の武将。肥後国熊本城主。尾張国に生まれ、同郷の豊臣秀吉に幼少期から仕える。織田信長没後にその跡目を秀吉と柴田勝家が争った賤ヶ岳の戦いで「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられる。四国征伐や九州平定などでも活躍。文禄・慶長の役では朝鮮に出兵して転戦し武名を挙げた。関ヶ原の戦いでは家康側につき、肥後一国を与えられた。城造りの名人で、熊本城のほか、名古屋城、江戸城などの普請を担当。晩年は豊臣秀頼と徳川家康の二条城での会見を成功させたが、直後に病没した。


[熊本城への交通]
熊本駅前停留場から熊本市電A系統16分、熊本城・市役所前停留場下車、徒歩5分

[観光の問い合わせ]
TEL:096-327-9500(熊本駅総合観光案内所)

(出典:「旅行読売」2024年4月号)
(Web掲載:2025年7月18日)


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