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【伊東潤の 英雄たちを旅する】第26回 黒田官兵衛と福岡

場所
> 福岡市、北九州市
【伊東潤の 英雄たちを旅する】第26回 黒田官兵衛と福岡

石垣や櫓が残る福岡城跡は桜の名所、舞鶴公園として整備されている。外堀跡の大濠公園が隣接する

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プロフィール
伊東 潤(いとう じゅん)

1960年、神奈川県横浜市生まれ。歴史作家。2013年、『国を蹴った男』で吉川英治文学新人賞、『巨鯨の海』で山田風太郎賞を受賞。過去5回、直木賞候補となる。近著に、敗れ去った日本史の英雄たち25人の「敗因」に焦点を当て歴史の真相に迫るエッセー『敗者烈伝』(実業之日本社)などがある。

過酷な戦国時代を泳ぎ切り、勝ち組となった官兵衛

NHK大河ドラマで「軍師官兵衛」が放送されてから、戦国時代の軍師に注目が集まり、黒田官兵衛孝高(よしたか)は軍師の代表のようになった。

官兵衛は1546(天文15)年、播磨(はりま)国の姫路で生まれた。若い頃は茶の湯や和歌といった風流を好んだが、10代後半から兵法書を学ぶようになり、その才能を開花させていく。

官兵衛には先見の明もあり、播磨国へ織田信長の勢力が伸びてくるや、その配下の羽柴秀吉の家臣となる。ところが好事魔(こうじま)多し。謀反(むほん)の噂がある荒木村重の説得に単身乗り込み、村重によって約1年間も幽閉されてしまう。

その後、九死に一生を得た官兵衛は秀吉の軍師格となり、豊臣家にとってなくてはならない存在となるものの、備中高松城攻めの折、本能寺の変が勃発。この時、秀吉に「これで殿のご運も開けましたな」と囁(ささや)き、天下取りを勧める。

官兵衛の思惑通り、秀吉は天下を取ったものの、その発言が秀吉を警戒させることになり、豊前中津(ぶぜんなかつ)12万石に左遷された。

秀吉没後、官兵衛は家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍に付いて九州の西軍を席巻。息子の長政も関ヶ原の戦いで功を挙げ、黒田家は筑前国の大半を与えられた。官兵衛は59歳で没するが、福岡藩黒田家は廃藩置県まで続くことになる。

そんな官兵衛が息子の長政と共に7年がかりで築いた福岡城には、かつて大中小三つの天守と47もの櫓(やぐら)があった。しかし今は、南丸(みなみまる)、多聞(たもん)櫓、伝潮見櫓、下之橋御門(しものはしごもん)、祈念櫓、旧母里太兵衛(もりたへえ)邸長屋門、名島(なじま)門を残すだけだ。それでも石垣も当時のままなので国指定史跡となっている。またこの城には、立派な天守台はあるが天守はない。過去に天守があったかどうか不明だったが、存在が確認できる新史料が最近発見されたことで、これからも論争が続きそうだ。

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家臣の母里太兵衛像は光雲(てるも)神社(写真)や博多駅前にあるが、黒田氏の銅像はない

崇福(そうふく)寺は鎌倉時代に創建された臨済宗大徳寺派の名刹(めいさつ)だが、後に黒田家の菩提(ぼだい)寺となり、黒田家歴代藩主の墓碑がある。その唐門(からもん)は官兵衛が福岡に入部した際に本拠とした名島城のもので、山門は福岡城の本丸表御門を移築したものなので、城好きは必見だ。

北九州市の小倉城も官兵衛ゆかりの城だ。この城は黒田家が建てたものではないが、秀吉の九州平定戦で、官兵衛は毛利勢と共にこの城を攻め、さらに関ヶ原の戦いの折も、西軍に与(くみ)した小倉城主の毛利勝信を攻めて落城に追い込んでいる。つまり官兵衛が2度も攻めた城になる。こちらには白亜の復興天守が建てられており、桜の季節によく映える。

右下 小倉城05.jpg
天守が復元されている小倉城と、複合商業施設「リバーウォーク北九州」の現代的な建物群との組み合わせは小倉のランドマーク

福岡市博物館は、官兵衛が信長から下賜(かし)された国宝の名刀「圧切長谷部(へしきりはせべ)」、小田原合戦の折、交渉役のお礼として北条氏からもらった国宝の太刀「日光一文字」、また黒田節で有名な家臣の母里太兵衛の名鎗(めいそう)「日本号」などを所蔵しており、刀剣好きにはたまらないだろう

福岡城に佇(たたず)み、過酷な戦国時代を泳ぎ切り、勝ち組となった官兵衛の生涯に思いを馳は せてほしい。

文/伊東 潤

写真協力/福岡県観光連盟、福岡市博物館、ピクスタ

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国宝 刀 名物「圧切長谷部」 撮影:要 史康

左下1 施設外観(斜面・大).jpg

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福岡市博物館では、国宝 金印「漢委奴(かんのわのなの)国王」を始め、黒田氏の福岡藩時代の資料などを展示。博多祇園山笠の舁(か)き山「軍師官兵衛之勲」、
毎年1 月に公開する国宝の名物「圧切長谷部」なども見どころ

英雄メモ🖋

黒田官兵衛(くろだかんべえ)[1546-1604]

安土桃山時代の武将。黒田孝高(よしたか)。通称の官兵衛か剃髪(ていはつ)後の如水(「じょすい)の名で知られる。名参謀の代表格として後世、同じ秀吉配下の竹中半兵衛とともに「両兵衛」とも呼ばれた。播磨国の姫路に生まれ、織田信長の勢力が及ぶと羽柴(豊臣)秀吉を迎え入れて、以降、中国攻め、四国攻めに従い、参謀として活躍した。九州平定後の1587年、豊前中津を与えられたが、家督を嫡男の長政に譲り、再び秀吉に仕えて小田原征伐、文禄・慶長の役に従軍。1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に付き、軍功により長政に与えられた福岡に移った。


【福岡城跡(舞鶴公園)へのアクセス】
地下鉄空港線大濠公園駅から徒歩5分
[観光の問い合わせ]
TEL:092-751-6904(福岡市観光案内所)

※記載内容はすべて掲載時のデータです。

(出典:「旅行読売」2025年3月号)
(Web掲載:2025年11月19日)


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