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【伊東潤の 英雄たちを旅する】第25回 渋沢栄一と深谷

場所
> 深谷市
【伊東潤の 英雄たちを旅する】第25回 渋沢栄一と深谷

「レンガの街」のシンボルとして1996 年、東京駅を模したレンガ造り風のデザインの橋上駅になった深谷駅。明治期、銀座煉瓦街や丸の内などに大量のレンガが必要になり、渋沢らが深谷にレンガ製造工場を設立した

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プロフィール
伊東 潤(いとう じゅん)

1960年、神奈川県横浜市生まれ。歴史作家。2013年、『国を蹴った男』で吉川英治文学新人賞、『巨鯨の海』で山田風太郎賞を受賞。過去5回、直木賞候補となる。近著に、敗れ去った日本史の英雄たち25人の「敗因」に焦点を当て歴史の真相に迫るエッセー『敗者烈伝』(実業之日本社)などがある。

500を数える様々な企業の創設などにかかわった渋沢栄一

渋沢栄一が新1万円札の顔になった。これまで紙幣の顔となった人は20人に及ぶ。戦前は実在が定かでない人物もいたが、戦後になると二宮尊徳、高橋是清(これきよ)、樋口一葉(いちよう)といった実在の人物が増えていった。紙幣の顔は、その時代に国が何を重視していたかの指標になる。樋口一葉には女性の社会進出を促す意図が、渋沢栄一には起業家精神を鼓舞する意図があるという。

子どもの頃から父親に付いて藍玉(あいだま)の製造と売買のノウハウを学んだ渋沢は、明治の経営農民としても有能さを発揮したが、青年時代は過激な尊王攘夷(そんのうじょうい)派の志士としても暗躍し、大規模な蜂起の計画さえ練っていた。

これにより幕府のお尋ね者になった渋沢だが、その有能さを惜しんだ一橋徳川家に保護され、慶喜(よしのぶ)の家臣になる。だが、その慶喜が将軍になると聞き、一橋家を辞そうとすると、パリ万国博覧会に随行員として参加しないかと誘われる。かくしてパリに行った渋沢は資本主義を学び、それが後年生かされていく。

維新後、渋沢は政府に出仕したが、日本初の国立銀行の創設を機に官を辞し、第一国立銀行頭取の座に就く。その後、様々な企業の創設などにかかわり、その数は500を数えた。さらに社会貢献活動や教育活動、また『論語と算盤(そろばん)』などの執筆活動に邁進(まいしん)し、日本の近代化に貢献した。その功績は言葉では表せないほどだ。

そんな渋沢の故郷・深谷市血洗島(ちあらいじま)には、ゆかりの史跡が多く残っている。深谷市では渋沢の生地から恩師の尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)の生家までの約2キロを「論語の里」と名付け、散歩コースとしても整備している。

その生地となる旧渋沢邸「中の家(なかのんち)」主家は明治中期の養蚕(ようさん)農家建築だ。妹夫婦が家業を引き継ぎ、ここに居住したが、渋沢も帰郷することが多く、寝泊まりする上座敷は書院造となっている。中庭には、渋沢の両親の招魂碑や飯能戦争で戦死した養子・平九郎の追懐碑もある。

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「中の家」は耐震・改修工事を施し、2023年にリニューアルオープン。晩年の渋沢は幼少期に親しんだ「血洗島獅子舞」を楽しみに諏訪神社の祭礼に合わせて滞在したという(写真/深谷市)

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「中の家」のアンドロイドシアター(写真/深谷市)

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幅広麺のうどんに深谷ネギなどの野菜を煮た郷土料理「煮ぼうとう」。「中の家」の隣にも専門店がある

旧渋沢邸の北には、青淵(せいえん)公園が東西2キロにわたって続いている。公園の名は渋沢の雅号青淵から取られたもので、この雅号は、生家裏の湧水が青々とした淵(ふち)となっていたことから付けられた。

旧渋沢邸の東にある「渋沢栄一記念館」には、ゆかりの品々や写真が展示され、渋沢のアンドロイドが『論語と算盤』の講義をしてくれる。

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「中の家」裏には清水川沿いに青淵公園ののどかな風景が広がる

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遺墨や写真などを展示する渋沢栄一記念館(写真/深谷市)

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館内ではアンドロイドによる講義が聞ける(要予約、写真/深谷市)

旧渋沢邸の南には、水戸藩の天狗(てんぐ)党が上洛(じょうらく)の途次にこの地を通った折、岡部藩と交戦したことが記された「水藩烈士弔魂(すいはんれっしちょうこん)碑」がある。その近くの諏訪神社の境内には、渋沢の77歳の喜寿を記念して村人が建立した「渋沢青淵翁喜寿碑」が立つ。

旧渋沢邸から東へ20分ほど歩くと、江戸時代後期に建てられた尾高惇忠生家に着く。尾高は富岡製糸場の創設にも尽力し、初代場長となるなど、生涯にわたって渋沢を支えた。

広々とした田畑が広がる深谷からは、秩父連山から赤城山や男体山(なんたいさん)まで見渡せる。こののどかな田園から、近代日本経済の父が生まれたと思うと感慨深いものがある。

文/伊東 潤

写真協力/ピクスタ

英雄メモ🖋

渋沢栄一(しぶさわえいいち)[1840 ~ 1931]

明治・大正時代の実業家。現在の埼玉県深谷市の裕福な農家に生まれる。幕末は尊王攘夷論に傾倒して倒幕運動にも参加したが、後に一橋(徳川)慶喜に仕えて幕臣となる。1867年、慶喜の弟の昭武に随行してパリ万博を訪れ、ヨーロッパ各地の近代的な政治経済を学んだ。維新後は大蔵省に入り、財政制度確立に努めた。退職後は第一国立銀行(現・みずほ銀行)、王子製紙、東京瓦斯(ガス)、日本鉄道など生涯に約500の企業設立や経営に携わり、この時代の実業界の指導的役割を果たして「近代日本経済の父」と呼ばれる。


[旧渋沢邸「中の家」への交通]
高崎線深谷駅北口からタクシー20分、またはコミュニティバス27分の「中の家」下車すぐ
[観光の問い合わせ]

※記載内容はすべて掲載時のデータです。

(出典:「旅行読売」2025年2月号)
(Web掲載:2025年10月22日)


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